表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
狼の水  作者: もぃもぃ
18/20

十六






 その一瞬は、唐突に訪れた。鈍く、ぬるいような感触が掌にひろがった。青年は驚いたように短い呼吸をひとつ零して、ゆっくりとその場に倒れた。

 手は血に濡れなかった。少女はそれを、不思議におもった。






*



 

 ――――あの火を消すことはできないのと、少女は問うた。青年は首を振った。なにも策がないのにここへ戻ってきたのと、いっそ悲しげに少女へ問い返した。


「……アスター。あなたはわたしを殺したいと言った。わたしが死ねば、あの火を止めてくれるの」

 

 それじゃ復讐にならないよと青年は静かに答えた。


「おれはきみへ、王都が火に嘗め尽くされるさまを見せなければいけない」


「……アスター、あなたの仲間のひとたちは死んだよ」


 青年は、意外なことを聞いた、という顔をした。


「仲間?」


「あなたから逃げたあとに、あの森で鉢合わせたの。王都の宝物(ほうもつ)を、アスターに内緒で森へ持ってこようとしていたよ」


「ふうん。それできみは、よく無事だったね。見たところ、ところどころ擦りむいているようだけれど。また逃げてきたの?」


 青年は、少女の擦り傷に一瞥をくれた。


「……死んだよ」


「死んだ? その盗人どもが? なぜ」


 オオカミが、殺した。


「…………オオカミ?」


 堪えかねてエンツィアは叫んだ。


「アスター……! なにか思うことはないのっ!? あのひとたちは、ひとのものを盗もうとしていて、でも殺されてしまったんだよ?」


 さきほどまでの凄絶な光景がエンツィアの頭をよぎった。

 青年は微笑んで、ゆっくりと口を開いた。


「エンツィア、おれは言ったよね。業はみずからに還ると。ならばその者たちには当然の帰結ではないのかな」


 悲しい思いで、少女は尋ねた。


「……どうしても駄目なの?」


「何がかな」


「あの火が王都を燃やし尽くすまで、どうしても止まってくれないの」


 青年は吐息を零して窓の外を眺めた。待宵の月が照る。王都を覆わんとする信じがたいような大火がなければ、厳かでうつくしい宵といえたであろうか。時おり風が窓を揺らし、月光は一条、青年の横顔へ注ぐ。

 不自然にならぬよう背中へ隠していたナイフの柄を、エンツィアは握りしめた。



「どの道もうとまらないさ」


 青年はのんびりと言った。知っているかい。


「愚かであるのは、なにも水の民(我々)やその盗人どもばかりではないさ。おかしなことに、玉座や権力がほしい人間など、この世には掃いて捨てるほどいるんだよ。自分たちの意のままに土地や民を支配したいらしい」


 滑稽だね、それに憐れだよ。


「ああして燃えれば、なにもかも失くなってしまうのに」



 エンツィアもまた、窓外を見つめた。

 この上はもはや、希望は絶たれたのだろう。むざむざと焼かれてゆく地を、首謀者でさえどうすることもできない。

 自分はずっと何かから逃れてばかりだった。いつも(すんで)のところで一命をとり留めてきた。だがそれも、もう終わるだろう。王都は焼き尽くされてしまうだろう。森からも火が起こってしまった。遠からずこの屋敷も焼け落ちてしまうだろう。


「アスター…………、ここにももうすぐ火が来る。森から火が出たんだ」


「予定していたよりも少し早いな。森の端からここまではまだ距離があるはずなんだが」


「え…………? では、あの火は…………」


 見えもしないのに、駆けてきた森の道をふり返るように、エンツィアは背後を顧みた。アスターは薄く笑った。


「この森の端と、都から火を上げたんだよ。だけど、そんなことはもう些末(さまつ)なことだ」



 ああ、とエンツィアは暗然たる息を吐いた。挟み撃つように、この国土は燃えるのだ。

 焼くものが尽きるまで、火は盛るのだろう。脈を刻むものは等しく滅びるのだろう。果てた地で、日は沈み月は昇るだろう。悠遠の時が過ぎるだろう。それでもまた命が芽吹くのだろう。自分とこの青年は、この罪の炎のなかで息絶えるだろう。そして火に焼かれるより早く、自分はこの青年の命を絶たなければならないだろう。

 エンツィアは一歩踏み出して、青年の肩に手をかけた。月光が鋭刃を照らした。少女はその刃を、青年の胸に突き立てた。青年は、薄青の瞳を見開いた。







*





 わたしたちは、世界から忘れられたもおなじなの。語り継がれた名を、だれも憶えてはいない。水の民も、古き神々でさえも。いにしえの花の名は、ここでついえる。この、――――――で。――――――――









評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ