十六
その一瞬は、唐突に訪れた。鈍く、ぬるいような感触が掌にひろがった。青年は驚いたように短い呼吸をひとつ零して、ゆっくりとその場に倒れた。
手は血に濡れなかった。少女はそれを、不思議におもった。
*
――――あの火を消すことはできないのと、少女は問うた。青年は首を振った。なにも策がないのにここへ戻ってきたのと、いっそ悲しげに少女へ問い返した。
「……アスター。あなたはわたしを殺したいと言った。わたしが死ねば、あの火を止めてくれるの」
それじゃ復讐にならないよと青年は静かに答えた。
「おれはきみへ、王都が火に嘗め尽くされるさまを見せなければいけない」
「……アスター、あなたの仲間のひとたちは死んだよ」
青年は、意外なことを聞いた、という顔をした。
「仲間?」
「あなたから逃げたあとに、あの森で鉢合わせたの。王都の宝物を、アスターに内緒で森へ持ってこようとしていたよ」
「ふうん。それできみは、よく無事だったね。見たところ、ところどころ擦りむいているようだけれど。また逃げてきたの?」
青年は、少女の擦り傷に一瞥をくれた。
「……死んだよ」
「死んだ? その盗人どもが? なぜ」
オオカミが、殺した。
「…………オオカミ?」
堪えかねてエンツィアは叫んだ。
「アスター……! なにか思うことはないのっ!? あのひとたちは、ひとのものを盗もうとしていて、でも殺されてしまったんだよ?」
さきほどまでの凄絶な光景がエンツィアの頭をよぎった。
青年は微笑んで、ゆっくりと口を開いた。
「エンツィア、おれは言ったよね。業はみずからに還ると。ならばその者たちには当然の帰結ではないのかな」
悲しい思いで、少女は尋ねた。
「……どうしても駄目なの?」
「何がかな」
「あの火が王都を燃やし尽くすまで、どうしても止まってくれないの」
青年は吐息を零して窓の外を眺めた。待宵の月が照る。王都を覆わんとする信じがたいような大火がなければ、厳かでうつくしい宵といえたであろうか。時おり風が窓を揺らし、月光は一条、青年の横顔へ注ぐ。
不自然にならぬよう背中へ隠していたナイフの柄を、エンツィアは握りしめた。
「どの道もうとまらないさ」
青年はのんびりと言った。知っているかい。
「愚かであるのは、なにも水の民やその盗人どもばかりではないさ。おかしなことに、玉座や権力がほしい人間など、この世には掃いて捨てるほどいるんだよ。自分たちの意のままに土地や民を支配したいらしい」
滑稽だね、それに憐れだよ。
「ああして燃えれば、なにもかも失くなってしまうのに」
エンツィアもまた、窓外を見つめた。
この上はもはや、希望は絶たれたのだろう。むざむざと焼かれてゆく地を、首謀者でさえどうすることもできない。
自分はずっと何かから逃れてばかりだった。いつも既のところで一命をとり留めてきた。だがそれも、もう終わるだろう。王都は焼き尽くされてしまうだろう。森からも火が起こってしまった。遠からずこの屋敷も焼け落ちてしまうだろう。
「アスター…………、ここにももうすぐ火が来る。森から火が出たんだ」
「予定していたよりも少し早いな。森の端からここまではまだ距離があるはずなんだが」
「え…………? では、あの火は…………」
見えもしないのに、駆けてきた森の道をふり返るように、エンツィアは背後を顧みた。アスターは薄く笑った。
「この森の端と、都から火を上げたんだよ。だけど、そんなことはもう些末なことだ」
ああ、とエンツィアは暗然たる息を吐いた。挟み撃つように、この国土は燃えるのだ。
焼くものが尽きるまで、火は盛るのだろう。脈を刻むものは等しく滅びるのだろう。果てた地で、日は沈み月は昇るだろう。悠遠の時が過ぎるだろう。それでもまた命が芽吹くのだろう。自分とこの青年は、この罪の炎のなかで息絶えるだろう。そして火に焼かれるより早く、自分はこの青年の命を絶たなければならないだろう。
エンツィアは一歩踏み出して、青年の肩に手をかけた。月光が鋭刃を照らした。少女はその刃を、青年の胸に突き立てた。青年は、薄青の瞳を見開いた。
*
わたしたちは、世界から忘れられたもおなじなの。語り継がれた名を、だれも憶えてはいない。水の民も、古き神々でさえも。いにしえの花の名は、ここでついえる。この、――――――で。――――――――