十五
記憶とは、いつしか溶けてしまうものだろうか。朽ちて果てて、もともと形すらないものを、そのうえ壊すことなどできるのだろうか。
だが万物の流転のなかで、交じり、因業のはじまりとなったことですら、欠けて零れていつしか浚われてゆくのだろう。永劫へと溶ける。やがて永劫すら、溶けるのだろう。
*
エンツィアは、凄まじい憤怒と咆哮に直面していた。正視に堪えない光景であった。松明の残り火があたりの木々へ這い、新たな火が蠢きつつあった。猛り狂った憎悪は、獣の足元の人間を肉塊へと化していた。血と臓腑の残滓にまみれた口元が、狂気もあらわに哄笑した。怨嗟の言葉を吐き、原形を留めない塊を執拗に嬲った。
「卑小な蛮族ども」
獣は唾棄した。よもや、我があさましき民どもの業に敗れたとでも。至尊であったこの身が、汚辱へ堕とされようとも、宿望を遂ぐるべく永久にも似た時を過ごしてきたというに。月のめぐりは、神であっても追い越せぬ。
あと一夜、あと一夜であったものを。
我こそが福音であり、我こそが理であった。其を簒奪するなどと。誰が赦しを得た。欠けた理はもはや埋まらぬ。最後の水の満つるを、悠久、餓えたに。
餓狼の怒りは酷烈を極めた。
エンツィアは、ただ茫然と、呼吸すら忘れたかのようにその場に座りこんでいた。獣の眼がエンツィアを捉えた。
「おのが命脈を、辛くも繋げること能うたと思うてか」
つめた息を吐きだすことさえ躊躇われる瞬間であった。あまりに残忍惨烈の記憶の夜が、幾度も少女を縫い留める。風が猛り、少女の着る貫頭衣の裾をまくりあげた。片方の脚の脹脛の途中でかすれた血の跡を、獣は驕慢至極に睥睨した。
「――供物を犯し、その生き血をこの身へ取りこむが第一義であった。そは生き血でなければならなかった、交合は一度きりでなければならなかった、そして月のめぐりを待たなければならなかった」
さすれば、水は満つるはずであった。
獣の血の眸と、少女の水の瞳が交差した。
「贄の民、供物の民……そが汝らに唯一あたえられし理ではなかったか。清けき水の化身の恩恵をうけし民の末裔、のう、あさましき民よ」
刹那、エンツィアは抗った。
「違うっ!! ちがう、ちがう、ちがう。わたしは教わった、わたしたちは、水の精が生まれかわった花の色をもつ民だったと。贄なんかではない! おばあさまは言っていた。“神々はもう二度と、うつくしい水の精霊を、赤いひとみのオオカミがみつけぬように、花を枯らせていったのです。”オオカミが――、あなたが、ことわりに触れたたために天界を追われたのだと。神々は、地へ落ちたあなたにみつからないように、水の花を枯らせていった。いちど滅びた水の精が、せっかく生まれかわった花だったのに」
「笑止。あれは、我とともにかつて湖水の畔にあったもの。我が求めつづけし、湖水の畔に安寧と咲く花であった。万事は整うていた、贄の汝に血の道がとおったことはなおさいわいであった。贄の血は多ければ多いほど、好い」
片脚の脹脛に伝っていた血の跡を、少女は戦慄をもって見やった。いまさらのように、腹の痛みが思い出された。
「汝は我のための贄であった、我のためだけの。この卑小な蛮族どもは、それを水泡に帰したのだ。供物は二度犯されてはならなかったし、屠られてもならなかった、かつ――――、我にゆるされた殺生は一度きりであった」
エンツィアは、今しがたまで人間であったそれら断片を、身体を顫わせながら視界の端に入れた。それは、もしや過去のおのれの姿であったかもしれなかった。暴虐の限りを尽くした、逃げ、あるいは見棄てた村で、在ったかもしれないおのれの姿だった。
「我みずからをもってして供物を捧げねばならなかった。よもや、これが我の理であるのか」
“神々はもう二度と、うつくしい水の精霊を、赤いひとみのオオカミがみつけぬように、花を枯らせていったのです。”
「……あなたが水の精を奪ってしまったのなら、最初から、それを手に入れることはきっとできなかった。なぜなら、あなたが探すことのできないように、神さまたちは生まれかわった水の花を枯らせて、わたしたち水色の瞳の民たちも、減らしていったのだから」
「愚かな神々が花を枯らすよりも、なお疾く、蛮族どもによって、汝らあさましき民は狩られていったではないか。理を統べる神々ですら、ついに予期せぬ仕儀であった」
それは祖母からくり返し聞かされた言葉であった。
みつかってはいけない。
だれからも、なにからも、けっして。
「水の精は、あなたを愛していたの?」
「我とあれは、かつて安寧と湖水の畔に在ったのだ」
「ちがう、きっとそれは、水の精そのものではない」
もうなにからも、だれからも奪わせはしない。
肌に寄る空気は、不穏なあたたかさを吐いていた。
エンツィアは立ちあがった。
「莫迦な。我はあれのそばで微睡み、あれのそばで――――」
獣は、あとにつづく言葉を途切れさせた。
“ながい永い、いくつもの夜がすぎ、いくつもの霜がおり、やがてあたらしい花は生まれ、いつしか滅びました。”
「アスターをとめに行かなければいけない」
火が、二つの影をつくり、それをすら覆うように躙り寄っていた。
エンツィアは顫えていた。けれど少女は踵を返した。
森の道は明るかった。
*
滅び、生まれの遠大なくり返しであったのか。幾度くり返そうとも堕罪の証は消えぬ。生得の報いとでもいうのか。理はどこから生まれるのか。原初に神であったものとは何か。かつての至尊は、まことに理であったのか。
求めたものはひとつであった。ただひとつの水。湖水のほとりに安寧と咲いた花。
浅ましきものとは、下界の民か、理を外れた神か、理の欠けた神々か。
思考することの意味すらも問うてこなかった。それに気づいてすら、かような思索は大火にあたる煙雨もおなじであろう。ただ、もはや一切が永劫のなかに閉じこめられた夢の譚のようだ…………