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狼の水  作者: もぃもぃ
17/20

十五






 記憶とは、いつしか溶けてしまうものだろうか。朽ちて果てて、もともと形すらないものを、そのうえ壊すことなどできるのだろうか。

 だが万物の流転のなかで、交じり、因業のはじまりとなったことですら、欠けて零れていつしか(さら)われてゆくのだろう。永劫へと溶ける。やがて永劫すら、溶けるのだろう。







 エンツィアは、凄まじい憤怒と咆哮に直面していた。正視に堪えない光景であった。松明の残り火があたりの木々へ這い、新たな火が蠢きつつあった。猛り狂った憎悪は、獣の足元の人間を肉塊へと化していた。血と臓腑の残滓にまみれた口元が、狂気もあらわに哄笑した。怨嗟(えんさ)の言葉を吐き、原形を留めない塊を執拗に(なぶ)った。


「卑小な蛮族ども」

 獣は唾棄した。よもや、我があさましき民どもの業に敗れたとでも。至尊であったこの身が、汚辱へ堕とされようとも、宿望を遂ぐるべく永久にも似た時を過ごしてきたというに。月のめぐりは、()()()()()()()()()()()

 あと一夜、あと一夜であったものを。

 我こそが福音であり、我こそが(ことわり)であった。()を簒奪するなどと。()が赦しを得た。欠けた理はもはや埋まらぬ。最後の()の満つるを、悠久、(かつ)えたに。



 餓狼の怒りは酷烈(こくれつ)を極めた。

 エンツィアは、ただ茫然と、呼吸すら忘れたかのようにその場に座りこんでいた。獣の眼がエンツィアを捉えた。


「おのが命脈を、辛くも繋げること(あと)うたと思うてか」


 つめた息を吐きだすことさえ躊躇(ためら)われる瞬間であった。あまりに残忍惨烈の記憶の夜が、幾度も少女を縫い留める。風が猛り、少女の着る貫頭衣の裾をまくりあげた。片方の脚の脹脛(ふくらはぎ)の途中でかすれた血の跡を、獣は驕慢至極に睥睨(へいげい)した。


「――供物を犯し、その生き血をこの身へ取りこむが第一義であった。そは()()()()()()()()()()()()()()交合(こうごう)()()()()()()()()()()()()()()()、そして()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 さすれば、水は満つるはずであった。

 獣の血の(ひとみ)と、少女の水の瞳が交差した。


「贄の民、供物の民……そが汝らに唯一あたえられし(ことわり)ではなかったか。清けき水の化身の恩恵をうけし民の末裔、のう、あさましき民(エンツィア)よ」


 刹那、エンツィアは抗った。



「違うっ!! ちがう、ちがう、ちがう。わたしは教わった、わたしたちは、水の精が生まれかわった花の色をもつ民だったと。贄なんかではない! おばあさまは言っていた。“神々はもう二度と、うつくしい水の精霊を、赤いひとみのオオカミがみつけぬように、花を枯らせていったのです。”オオカミが――、あなたが、ことわりに触れたたために天界を追われたのだと。神々は、地へ落ちたあなたにみつからないように、水の花を枯らせていった。いちど滅びた水の精が、せっかく生まれかわった花だったのに」


「笑止。()()は、我とともにかつて湖水の畔にあったもの。我が求めつづけし、湖水の畔に安寧と咲く花であった。万事は整うていた、贄の汝に()()()がとおったことはなおさいわいであった。贄の血は多ければ多いほど、好い」


 片脚の脹脛に伝っていた血の跡を、少女は戦慄をもって見やった。いまさらのように、腹の痛みが思い出された。


「汝は我のための贄であった、我のためだけの。この卑小な蛮族どもは、それを水泡に帰したのだ。供物は二度犯されてはならなかったし、屠られてもならなかった、かつ――――、我にゆるされた殺生は一度きりであった」


 エンツィアは、今しがたまで人間であったそれら断片を、身体を(ふる)わせながら視界の端に入れた。それは、もしや過去のおのれの姿であったかもしれなかった。暴虐の限りを尽くした、逃げ、あるいは見棄てた村で、在ったかもしれないおのれの姿だった。


「我みずからをもってして供物を捧げねばならなかった。よもや、これが我の理であるのか」



“神々はもう二度と、うつくしい水の精霊を、赤いひとみのオオカミがみつけぬように、花を枯らせていったのです。”



「……あなたが水の精を奪ってしまったのなら、最初から、それを手に入れることはきっとできなかった。なぜなら、あなたが探すことのできないように、神さまたちは生まれかわった水の花を枯らせて、わたしたち水色の瞳の民たちも、減らしていったのだから」


「愚かな神々が花を枯らすよりも、なお(はや)く、蛮族どもによって、汝らあさましき民は狩られていったではないか。理を統べる神々ですら、ついに予期せぬ仕儀であった」



 それは祖母からくり返し聞かされた言葉であった。

 みつかってはいけない。

 だれからも、なにからも、けっして。



「水の精は、あなたを愛していたの?」


「我とあれは、かつて安寧と湖水の畔に在ったのだ」


「ちがう、きっとそれは、水の精そのものではない」



 もうなにからも、だれからも奪わせはしない。

 肌に寄る空気は、不穏なあたたかさを吐いていた。

 エンツィアは立ちあがった。



「莫迦な。我はあれのそばで微睡(まどろ)み、あれのそばで――――」




 獣は、あとにつづく言葉を途切れさせた。




“ながい永い、いくつもの夜がすぎ、いくつもの霜がおり、やがてあたらしい花は生まれ、いつしか滅びました。”



「アスターをとめに行かなければいけない」


 火が、二つの影をつくり、それをすら覆うように(にじ)り寄っていた。

 エンツィアは(ふる)えていた。けれど少女は踵を返した。

 森の道は明るかった。

 








 滅び、生まれの遠大なくり返しであったのか。幾度くり返そうとも堕罪の証は消えぬ。生得しょうとくの報いとでもいうのか。ことわりはどこから生まれるのか。原初に神であったものとは何か。かつての至尊は、まことに理であったのか。

 求めたものはひとつであった。ただひとつの水。湖水のほとりに安寧と咲いた花。

 浅ましきものとは、下界の民か、理を外れた神か、理の欠けた神々か。

 思考することの意味すらも問うてこなかった。それに気づいてすら、かような思索は大火にあたる煙雨もおなじであろう。ただ、もはや一切が永劫のなかに閉じこめられた夢のはなしのようだ…………













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