十四
千年、万年、あるいは永劫の時のなかで、ただ一度きりの機会であると、それは知っていた。その獣は知っていた。そのめぐりあわせを逃せば、もはや二度とおのが命脈を繋げることはできまい。時運、命数、理。万物は廻る。月の満ち欠けと潮の満ち引き、生の断絶と復活。
幾星霜の星の一滴。望みというにはあまりに卑俗でとおく、因業に霞んだものであったと、はたしてそれは知っていたのか。
語りを得ぬ譚である。
*
エンツィアは屋敷の外へ出たものの、したたか腰を打っていた。階段を転げおちてうめいたそのとき、自分はいつも逃げてばかりだとおもった。それを呪いはしなかった。けれど、この炎をみたとき、とおく空が赤く燃えるのをみたとき、これは呪いであるとおもった。憎悪の炎であった。
絢爛たる炎だった。怨みと憎しみを糧としてそれは猛った。そしてその炎は、おのれの仇を熟知しているかのごとく、確実に的確に、冷酷なまでに厳として国土を舐めていった。
走り走りして、森のなかまで来ていた。風と暗黒がそこを覆い、遥か頭上にただ煌々と月が照っていた。それはいつの月だったのだろうか。故郷の村の惨劇を背にひたすらに走ったあの日か、得体のしれぬ獣と邂逅した日か、その獣に凌辱された日か。
少女は顔をおおってしゃがみ込んだ。いまやすべてがはっきりとしたようだった。なぜあれほどの惨いことを忘れていられたのか。己の身に起こった、あらゆる悍ましいできごとを。
だれもかれも死に、奪われ、そしてアスターのような厭世的な破壊者を生みだしてしまったのだ。けれど、ああ、あの炎は彼の情念であり怨念であった。そしてエンツィアもまた、彼のなかへその種火を植えてしまったのだ。
ふと風がやんだとき、人声と足音がして、エンツィアはそばの木の陰に隠れた。複数の松明に、自分を追うためにアスターが差し向けたものかと少女は慄然としかけたが、その声と足音はなにかの場所を確認しているようであった。宝物が、あるいは、内密になどといった言葉がきこえ、アスターという名も囁かれた。
『アスターへは内密に、王宮の宝物をここへ』
下卑た笑いが、少女の過去を絡めとった。村が襲われた日、すべてが踏みにじられ、奪われていったはずだ。散乱するガラスに、血溜まり、叫喚、炎――――。
卒然とエンツィアは立ちあがった。とめなければ、とおもった。
この炎を、アスターを、あの日の惨劇を――――!
だがエンツィアは見つかってしまった。松明に顔を照らされ、あまつさえ、彼女の瞳の色さえも。
エンツィアは怯まなかった。どうあってももはや、アスターをとめにいかねばならぬと思った。手首を掴まれ地面に引き倒されても、獣にあたえられたあの惨烈な痛みがまたもやおのれを襲うことになっても。迫る絶望に、景色はさらに暗くなった――――……。だが、だが。
それは、来なかった。
代わりに聞こえたのは、壮絶な叫び声であった。血飛沫が散った。だれかの腕が、脚が、宙に浮かんでごとりと地に落ちた。そして火が舞い、それも落ちた。
何度このような光景を見ただろうと、少女は回想した。火のなかに在る血。流れる血の色の――双眸。
「あかい、オオカミ…………」
*
『至尊の神に愛されし水の精霊、かの花は、その化身。』
『神々はもう二度と、うつくしい水の精霊を、赤いひとみのオオカミがみつけぬように、花を枯らせていったのです。
ながい永い、いくつもの夜がすぎ、いくつもの霜がおり、やがてあたらしい花は生まれ、いつしか滅びました。
それすらもう、いにしえのこと。
そして、いにしえの花の色をもつ民は生まれました。』
残酷な牙は、嗤ったようであった。
*
湖水の畔にかつてそれは在った。清けき瞳の水の化身――――。