十二
水の精はたしかに、神に愛されたが、水の精の化身である水色の花の眸をもつ民たちが特別信仰した神はない。彼らは伝承を民の誇りとして連綿と大切にはしてきたが、そのなかに、およそ自死を推奨する神も昔語りもありはしなかった。ただ、推奨される事柄ではないにしろ、還らぬ者たちのもとへ旅立ちたいと願う者には、ひとつ望ましいとされた祈りの方法があった。なにかひとつ、死者の生前に縁のあるものをともなって、生への願いを断てばよいと。すなわちそれは、少女――エンツィア――にとっては、彼女の父が遺してくれたエンツィアの絵であった。
かの人の薄青の双眸が、いとしげに細められるさまを、彼女は憶えていた。彼のくれた祝福は、皮肉にも悲痛な結末への導き手に他ならなくなってしまったけれども、いまとなってはもはや少女の唯一にして最大の光であった。
それがいま、燃えている。否、そう認識するまでもなく紙は溶けた。村が焼かれたあの惨劇や、家族にかんする記憶を失っていた時間はあったが、後生大事にしまっておいた父の形見であった。
少女の眸が絶望に沈んでいくさまを、少女と同色の眸をもつ青年は嘲った。
「……気分はどうだい、エンツィア? 同族に痛めつけられるその気分は。さながら、裏切られたような心地じゃないかな」
「アスター……」
自分の股座から、なにか流れ出るものを感じながら、少女は青年を見かえした。その後ろには月が昇り、煌々とした光の筋が窓を通して室内に入った。
「アスターは、村のみんなを恨んでいたのね。この瞳の色を、嫌っていたんだね……?」
「きみが思うほど生半可なものではないよ」
青年は足元に落ちた溶けた紙の残骸を踏み潰した。蝋燭を持ちながら、床に執拗にそれを擦りつけた。エンツィアはその様子に、訝しさと、初めて青年に対する恐怖を覚えた。目の前に、赤一色の景色が再生された。赤いものは、月であり、火であり、血であった。言いしれぬ悪寒が這いあがった。その先は訊いてはいけないはずであるのに、少女の口はひとりでに開いた。
「……どういうこと……?」
相対する水色の眸は細められた。そこに底光りする焔を少女は見たようであった。
「描いていた未来は思っていたより呆気なかったと言っただろう? おれはもっと劇的なものを想像していたよ。おれが撒いた種が花ひらくその瞬間に、きみにも華々しい最期を用意してあげるつもりだったんだ。絵を隠していたつもりはなかったけど、詰めは甘かったんだろう。きみひとり程度、取るに足らないと思っていたことは確かだよ。そんな感情では補えないくらい、憎んでいたこともまた真実だけれど」
憎悪という名の刃は、少女の胸を刺し貫いた。たった今の今まで、自分以外のほかの誰を、気にかけることができたというのだろう。だがこの青年は、彼女をずっと憎んできたのだ。
「“清算する”と、おれが話したことを覚えている?」
青年が短い期間にくり返し述べてきた復讐、満月、清算という言葉が、月光とともに少女の身体を浸した。ただ少女は、清算という言葉の意味を知らなかった。
「アスターは、復讐がしたいの?」
「復讐したいがためにこの命の火を燃やしてきたと思う? 復讐すべく運命づけられたと定めるほうが、お伽話めいてはいやしないか」
エンツィアは、揺らめく水のような瞳で、ひたと青年を見つめた。縋る心もちで彼に問うた。
「わたしを、殺したい……?」
*
深い森の端と都の深部で、火の手の上がったことを、彼女はまだ知らない。
彼女の股座から流れたものが血であると、彼女はまだ知らない。滲む血は痛みの代弁者であり、広がる血は理の執行人であることを、彼女は感知するだろうか。理はなにから始まり、生まれるのであろうか。生命の血は大地に吸われ、のちの新たな生命の苗床となるのであろうか。
血は火のようである。
では、水に火が映るときそれは何色に染まるのだろうか。
彼女の水色の眸に赤が映るとき、それは、何色に染まるのだろうか。
満月は、明夜だよと彼は笑った。