十一
身体のどこかが痛んだ。頭であるような、胸であるような、腹であるような。それはしくしくと、脈動にあわせて少女を苛みはじめていた。
少女は書棚のまえで青年にふり返った。湖水の色と色とがぶつかった。みつけてしまったの、と青年は言った。彼の双眸は落胆でもあり、憐憫の表情でもあった。彼のもつ燭台に立てられた蝋燭の火が、彼の双眸を照らしていた。
「…………アスター、これは何……?」
少女のもつ紙を一瞥して青年は吐息した。
「描いていた未来は思ったより呆気なかったみたいだ。それが何かは、エンツィア、だれよりも君が知っているんじゃないかい?」
「アスター? なに? 今なにを言ったの?」
青年は口の中でなにかをつぶやいた。その嘲るような仕草を、少女は見逃さなかった。
「アスター……、尋ねたいことがあるの」
「尋ねたいこと? きみが? おれに?」
彼は驚きを顔に浮かべ、声を上げて笑った。
「どうしてそんなに笑っているの? わたしが変なことを言った?」
「俺の思い違いでなければ、再会してからの君は生きることにとても無気力なふうだったよ。それが、“尋ねたいことがある”? 見過ごせない変化だとは感じないか」
青年は薄青の目でエンツィアをまじまじと見た。
少女の身体のいずれからかもたらされる痛みは、少しずつ大きくなっていた。頭より下かもしれない。胸だろうか。呼吸がか細く乱れた。
「そんなこと、わたしにはわからない。でも、大事なことなような気がするから知りたいの」
青年の瞳に昏い色が翳った。
「ふうん、そう。それで、尋ねたいこととは?」
少女は、手にしていた紙の端を握った。
「アスター……。わたしたちは、“あさましき民”だったの? だからあんな目に遭ったの?」
それなる色のあさましき民……清けき水の化身の恩恵をうける民の末裔……。
あの獣が口にした言葉だった。少女はとっさに口元を覆った。吐き気と寒気が彼女を襲い、紙とともにその場に頽れた。視界が激しい明滅を繰りかえす――――ように思える。それはどの場面でのことだったのか、定かならない。だが自分が在った夜陰と、逆巻く風と火柱は、たしかに現実のものであった。少女は呻いて己が腹をかかえた。
青年は手近にあった小さな机に燭台を置き、少女に近づいて、床に落ちた紙を拾いあげた。
「この絵が、きみの余計な覚醒を促したのかな」
しくしくと、身の内を苛む痛みを堪えながら、少女は青年を仰いだ。
「アスター。とおい昔に、神さまの怒りを買ったことが、ずっとずっとあとになってわたしたちを苦しめたの、殺されなければならないほどに?」
「……君は助かったじゃないか」
「おばあさまも、お母さまもお父さまも、わたしの目の色を褒めてくれけど、みんないつも悲しそうだった。おばあさまと二人きりになってからは、“だれからもみつかってはいけない”と、呪いのように言われた。どうして……? 神さまの受けた呪いが続いているように、わたしたちにもなにか罪があるの……?」
青年は紙に描かれている花に目を落とした。
「さあ、ねえ。どんな昔話だったかな。――――全能の神がただひとつのものを乞うたがために、他の神々によって赤い目の狼となって地に堕とされた。赤い目の狼は、自身が求めた水の精を憎しみのあまり燃やし尽くした。水は絶え空が割れても、かつての神はその化身である水の精を探しつづけた。やがて安寧の雨の一滴が、清かな花になった。花の恩恵は、水そのもの。我々は水をもたらす民と語り継がれた末裔、その証としての眸の青――――――。そして水の花の名は、エンツィア」
青年は手の内の花を握り潰した。
「アスター! なにをするの!?」
「エンツィア。なぜ我々があんな目に遭ったか知りたいんだろう?」
青年は、ゆっくりと少女のまえに膝をついた。
「神は、神々はなんて手抜かりなことだろうね。水の民が水の民を滅ぼそうとしただなんて、いくら神さまでも予知することができなかったのかな?」
少女は愕然として青年の顔に見入った。
「どういうことなの……?」
「我々が生まれる以前のことなんて、もはや知りようがないけれど、ただ珍しかっただけだ。ただ、俺たちの目の色が珍しいという理由で、人間によってあの村が狩られた」
少女の身体は、痛みのうねりに浚われた。あの不穏な闇の中で獣によって行われた暴虐の再来のようであった。脂汗が額に浮き出た。
「水の民の末裔だとか花の精の生まれ変わりだとか、飾りつけられたくだらない伝承に人々は惑わされて騙されて、力を手に入れようとした。水の民をつかって世界を掌握しようとした。ああ、天を仰ぎたくなるくらい愚かだ。けれどももっと愚かなのは…………」
青年は紙の絵を握り潰したまま立ち上がり、燭台を置いた机まで戻った。
「アスター……? それを、返して……っ!」
床に這いつくばっていた少女は腹をかかえながら身を起こした。何も映していないような瞳で、青年は少女を見た。
「……その必死な目、あのときとまったく同じだねエンツィア」
「…………え………?」
ゆらめく蝋燭の火で青年の影がかすかに動いた。もう日が落ちてきていた。
「アスター……?」
「俺はあの村が忌々しかったよ。村の連中をずっと恨んでいた。滅びてしまえばいいと、幼いながらに思っていたさ。だから蛮族が村を襲ったときは好機がやってきたと悦びさえした。くだらない、じつにくだらないじゃないか。……もっと愚かなものはね、エンツィア。あんな伝承に縋りついて、ただ現状を嘆くしかなかった我々だよ。誇り高き民の末裔? あるかないかも定かでないお伽話を宝物のように語り継いでなにになる? だから終わらせてやろうと思ったんだよ。自分の、この手で」
「あ、あ……、なに……?」
理解を拒否した少女であったが、身体の顫えが治まらなかった。それだけではない。なにか、重いなにかが腹の底に溜まっている。痛みはここからきている。鈍く重い、塊のようななにか。ちょうど今のアスターの昏い目のような。
青年は燭台から蝋燭を一本、スッと抜き取った。火が少女の視界に広がった。
「村が襲われたあのとき。君は、誰も顧みなかった。ほかの誰をも。同じ色をもったほかの誰をも」
少女の脳裏にあの場面が甦った。
なにもわからずただ逃げたあのとき。散乱した硝子、木の焦げる臭い、目が焼けるほどの火の赤も背にして、血を吐く思いで村人をふり切ったあの日。
そう、だれも救ってはくれない。だれも顧みてはくれない。
だが、あのときはだれもおなじだった。
自分だって顧みなかった。ほかのだれをも。
自分とおなじものをもった、ほかのだれをも。
「……やめてっ!!」
悲痛なまでに少女は叫んだ。
なにが同時に起こったのであろうか。
同族の青年が同族を屠った事実を、少女が理解したことだったのか。
握り潰した紙の絵に、青年が火をつけることだったのか。
少女の股座から、血が流れたことだったのか。