07 波紋
基本的に顔を合わせないで済ませることは容易い。私的な交流が絶えて久しかったならなおさらだ。
ランドルフは王妃と孤児院から戻ってから、あえて王妃のことを考えることをやめた。――やめたつもりだった。
執務を行い、気が向けば側妃のところに渡る。
ただ執務の合間であるとか、側妃の前でも王妃の話題を自ら出すことはなく、ただ傍目からはほんの少しだけ心ここに在らずのように思えた。
宰相と側妃はそれを敏感に察する。
「明後日の式典の手順はこのようになっております。今回、王妃様と民に手を振る場面がございますので」
「その前の箇所が変更だというわけか」
式典の概要を記した書類を手に、ランドルフは頷いた。
王妃と手を振る。専用に造ってあるバルコニーの上から、その区画だけ特別に開放して集まった民に手を振る。国王と王妃の存在を内外に示しながら、民の様子を間近に見られる機会だ。
昨年も、その前の年も王妃はよくできた人形のように手を振るだけだった。ランドルフと目を合わせるでもなく、ましてや微笑むことなどない。
民も笑わない王妃ということはよく知っていて、それでも普段ほとんど見ることのない王族を自分の目で見られる数少ない機会と、庭に押し寄せて歓声をあげる。『国王様万歳』の声が『王妃様万歳』よりも圧倒的に多いのが常だった。
手か、とランドルフは己の手を眺める。
孤児院で王妃を抱きしめ、馬車の中で拒絶された手。
触れられるのも嫌なのだと拒絶された手。ぐっとこぶしを握り締めてランドルフはくっと奥歯を噛み締める。考えまいとするのに、気付くと孤児院での王妃のことを思い出している。
そんな自分にいささか嫌気もさしていた。
「そなたは王妃の孤児院訪問をどう思う?」
「たいへんご立派だと思います。公務に穴をあけることなくこなされているようですし」
あれからも定期的に王妃は孤児院に通っている。城下の屋敷に滞在しては城に戻っていた。屋敷のことを調べさせても不審なことはない。
誰かが訪問することもなく、接触するでもなくひっそりと過ごして城に戻ってくる。本当に単なる慈善活動らしいと、貴族や城の使用人の関心も波が引くように沈静化していた。
ただ、ランドルフだけが気にしている。認めまいとしてはいてもだ。
「あそこでの王妃は、人が違っているように思えた」
「左様でございますか」
子供達と戯れて、間違いながらも抱きついてきた。あの時の腕の力と華奢な感触、興奮を内に秘めた声と側妃のとは異なるさわやかでいてどこか甘やかな香りが、何度側妃で上書きしようとも脳裏から消え去ってはくれない。
少し近づいたかと思えば、冷ややかに遠ざかる氷のような無表情もだ。
「――王妃は恐ろしく愛想はないが、あれは嘘をついたことがあっただろうか?」
「王妃様がですか? 私の記憶にはないように思いますが」
「そうだな、私にもない。ところで王妃が階段から落ちた日の報告書は信頼できるものであろうな?」
抽象的な質問から具体的な事柄の質問になり、目をまたたかせていた宰相は表情を改めた。
「はい、そのはずですが」
「王妃が踵の高い靴を履いていたのも間違いないとしてよいのだな?」
自身そう報告を受けて、階段下で転がっていたとされる靴も『証拠』として提出されて実際に手に取っている。
王妃が目覚めたと聞き及んで寝室へと赴き、寝台に放り投げたのも確かだ。――だが。
「王妃様ご本人と、王妃様付きの侍女は一貫して否定をしております」
「侍女とやらの証言は報告書には?」
「記載はしてございます」
わが身可愛さでの証言であろうと結論付けられている、と言外に宰相はにおわせる。ランドルフもその可能性は充分にあるとは思っているが、馬車での王妃の口調は捨ておけない気がした。
「もう一度、秘密裏にそなた自らで調べてはもらえぬだろうか」
「承りました。陛下、ブレンダ様のほかに新たな側妃を迎える話はいかがいたしましょうか?」
王妃が懐妊してからその性別を含めて子供の誕生まで静観する構えだったのが、失われてしまった。以後の懐妊も期待できそうにない。
今現在、ランドルフの子供を産める女性は側妃のブレンダただ一人。それでは心もとないと、にわかに側妃をとの声が上がっている。
もとより貴族にとっては世継ぎの祖父の地位は魅力的であるし、令嬢達にとっても同様だ。王妃がお飾りで無視できると思っていればなおさらだろう。
国王の隣に立てるかもしれないというのは、抗いがたい誘惑だ。
元王女である王妃と有力貴族である侯爵令嬢の側妃という取り合わせは、奇妙なつりあいを持っていて他の令嬢の参入を阻んでいたが王妃の『脱落』でそれが崩れた。
他の者にも機会が訪れたと感じ、またブレンダへの権力の集中を厭う空気もあいまって新たな側妃をとの熱意が高まっている。
世継ぎのことを考えるなら、そして国の安定を考えるのなら新たな側妃は正しい選択のように思える。
ブレンダは確かに可愛らしくいじらしい。世継ぎの母としての身分も申し分ない。ただここにきて、ランドルフの中に王妃が無視できない存在として居座ってしまっていた。
政治的のみならず、個人的にだ。
「その話は一旦保留にしてくれ」
「承知したしました。式典の後は夜会もありますれば」
そこで令嬢達を見初めればよいと示唆され、あいまいにランドルフは頷いた。
「国内外の招待客を迎える準備は?」
「整っております。王妃様の生国の北の国からも今回は王族の方がいらっしゃる予定ですが、到着がぎりぎりになりそうです」
「珍しいこともあるものだ。小国ながら誇り高くあまり他国には出てこないのに」
「最近は交流も盛んですし何より王妃様の縁続きですから」
王妃の親族かとランドルフは興味をそそられた。国王や王太子とは顔を合わせてはいるが、強烈な記憶はない。
式典前の慌しい空気にせかされるように、ランドルフは執務に戻った。
「陛下が新たな側妃をいうお話は本当なのでしょうか?」
ブレンダの耳に聞こえてきたのは屈辱的な内容だった。貴族の令嬢として愛想は良くしても、直情的な感情は演技のほかには出してはならない。
そう教育されてきたブレンダの心情を表すのは、テーブルの下できつく握られてたわむ扇子だけだった。
「まあ、そうなの? でもまだ噂だけなのでしょう?」
つとめて声に不機嫌さを滲ませずに、ブレンダは話の主を見つめる。
私的なお茶会は、親しい数人だけを集めて行われていた。仲のよい夫人や令嬢――ただ、令嬢の目の中に隠しきれない期待を見て取り、ブレンダは内心穏やかではいられなかった。新たな側妃として取り立てられるかもしれないと夢を見ている令嬢達。
自分の地位を脅かすつもり?
国王ランドルフから唯一愛されていると思っていた自信は、ここ最近ゆるぎないものではなくなっていた。
変わらず優しいのだが、以前と比べて渡りが間遠になっている。そばにいてもランドルフはどこか上の空でもある。
王妃の話題を出すと嫌そうではあるが、無関心や流産に関しての不愉快さだけではない何かも感じる。
はっきり言えば王妃に関心を持っている。
赦しがたい事実を、違うと思おうとしていた矢先の新たな側妃の噂だ。
実家の勢力から自分がないがしろにされることはない。そうは思っていても新しい側妃にランドルフの関心と愛情が移るのは我慢ならない。
自分こそが陛下に寄り添い誰よりも近くにいるのだと思っていたのに、今になって足元がぐらつく気配がする。
王妃に加えて新しい側妃など。
国王を慕うがゆえに抑えられない不愉快な思い。顔には出さないがもう無邪気なだけではいられないことをブレンダは自覚した。
夜会では誰よりも美しく装わなければ。誰よりも陛下に相応しいのは自分だと知らしめなければ。既に用意してあるドレスにまだ手が加えられないだろうか。お茶会が終わったら早急に手直しに取り掛かろう。
そう考えていたブレンダは、常にないむかつきを感じた。
「陛下が新たな側妃をいうお話は本当なのでしょうか?」
エルマとジェーンとお茶を飲みながら話をふられたクリスティーナは、一瞬だけ手をとめた。
随分前からこの三人でお茶というのも習慣になっていた。以前はエルマだけだったのが、ジェーンも加わり主従の垣根を越えたものになっている。
変わったことといえば他にもある。ブレンダに情報を流していた侍女はエルマとジェーンが選んだ新しい侍女に代わり、近衛は孤児院に同行するたびになんとはなくの親しみも加わって、王妃の間は氷の王妃に似つかわしくない和やかな空気に包まれていた。
ジェーンは若い娘らしく、新しい側妃の噂が気になって仕方がないらしい。
「事実であっても不思議ではないわ」
クリスティーナは淡々と言う。エルマは何も言わない。ジェーンはそれでいいんですかと言わんばかりの顔つきだ。
そんな二人にクリスティーナは少しだけ困った口調になる。
「仕方ないでしょう? お世継ぎは必要なのだし」
年の離れた王弟や王妹はいるが、ランドルフに世継ぎが必要なのは当たり前の話で。むしろ今までの側妃が一人きりという事態が異常なのだ。
「王妃様はそれでよろしいんですか?」
「ジェーン、顔が怖いわ」
クリスティーナにたしなめられて慌てて頬に手をやるジェーンが可愛く、クリスティーナも頬を緩める。
子供達に影響されてか、城の外の空気がのびのびしているからか、クリスティーナの凍り付いて動かないのではないかと思われた無表情も最近では緩みがちだ。ジェーンなどクリスティーナの、どうにか微笑みとよべるものを目撃した日には、目と口をまん丸にしていつまでもそのままだった程だ。
冷静沈着を旨とする近衛も動きが止まったほどだったので、氷の王妃の微笑みにはなかなかの破壊力があるらしい。
それでも最近は慣れてきて、密かにそんな表情が見られるのが誇りであったり自慢であったりもするらしかった。
「状況を見れば当然の成り行きでしょう」
「状況云々ではなくて王妃様のお気持ちです」
「ジェーン、わきまえなさい」
エルマからの叱責に口をつぐむジェーンだが、目は雄弁に物語る。
クリスティーナはそれを受け流した。長年の無表情は何を考えているのか分からないと不気味さを煽るほどに完成されていて、感情を読取らせない。クリスティーナがこの表情になると決して本心を明かすつもりがないのをジェーンも知っていて、追求を諦めた。
代わりに自分の職務を全うすることに決めたらしかった。
「王妃様、式典と夜会のドレスの仕上がりはいかがですか? 改善をご希望する点などございますか?」
「いいえ、とても素晴らしいできだと感心しているの。良くやってくれたわ」
クリスティーナから褒められて、ジェーンはぱあっと顔を輝かせた。王妃の周囲の空気をあたたかいものに変えたのに、間違いなくジェーンも一役買っている。
エルマは良い方向に変わりつつある主人を見ながらそう思う。自分しか味方がいなかった頃からすれば、まず周囲から、そして慈善事業に関心のある貴族達にと確実に王妃の影響力が及びつつある。
元から王妃としての資質は申し分ない。少しだけ氷の壁がとけたようにも思えて、そうと知った人の関心を集める。
この期に及んでクリスティーナと交流を持つ貴族はよほどの野心家か、独自の信念や価値観を持ち信頼に足る人物だ。人となりを見極めて情報と組み合わせてその中から『本物』を選び出す。
主が変わろうとしているのなら、協力する。悲しいきっかけから始まったことでも、うすうすこの先の主の意向も察してはいてもだ。
誰よりも誇り高く、誇りにしがみつかなければ生きてこれなかった主の姿は物悲しい。想いの大きさを自覚していない様子ももどかしい。
できるのはただ主の背後を守り、思う生き方のために全力を尽くすこと。長年クリスティーナの母でもあり、姉でも友でもあったエルマは、今度の式典に波乱の予兆を感じていた。
昼間新しい側妃の話が持ち上がったせいか、眠れずにクリスティーナは寝台を抜け出してバルコニーへと出た。風は冷たいが気持ちが良い。澄んだ空気に星がよく見える。
しばらくそうして立っていたクリスティーナは、背後からの足音に振り返った。いたのは寝衣に暖かそうなガウンを重ねたランドルフだった。
「陛下」
「星がきれいだな。そなたはそんな薄着で寒くないのか?」
「寒さには慣れておりますので」
「そうか。――だが、随分と冷えているではないか」
頬に当てられた手の温もりに、クリスティーナは疼くような想いを抱く。ずっと与えらなかった温もりはランドルフが手を引けば、一層のわびしさを伴う。
「風もでてきた。中に入ろう」
背中に手を添えられて素直に寝室へと戻りかけ、クリスティーナは出入り口を兼ねている窓のところで足を止める。
「それではお休みなさいませ」
「体が冷えたので、何かだしてくれないか?」
別れてそれぞれの寝室へ戻るとばかり思っていたのに、意外な要求にクリスティーナはランドルフを見上げた。
先に自分の寝室にランドルフを通して、飾り棚からグラスと酒を取り出す。生国の酒は度数が高く、少量なら寝酒としてもいい。長椅子に座ったランドルフのグラスに酒を注ぎ手渡した。
毒見も兼ねてクリスティーナが先に飲む。ランドルフもグラスを口に運んだ。
「美味い」
「ありがとうございます」
酒肴はさすがにないので、急に酔わないように少しずつ飲んでいるクリスティーナをランドルフはじっと見つめていた。
その視線に何か含まれているように思えてクリスティーナは何か、と小首をかしげた。
「そなたは笑いも泣きもしないが、どうしてなのだ?」
ランドルフから何故笑わぬ、と随分昔になじられた気がする。クリスティーナに関心を失う前のことだ。
優しい陛下は政略でめとった自分を、それでも大事にしてくれた。どう応えていいか分からなかったのは自分の方だ。これまでのように接していたら、いつの間にか氷の王妃とあだ名され定着してしまった。
ランドルフが離れていって久しいのに、この状況はなんだろうと不思議に思える。
「泣くことも笑うことも禁じられておりました」
「誰からだ」
「父の、国王からです。わたくしは母の命とひきかえに生まれました。父は母をそれは愛していたそうで、わたくしが赦せなかったのでしょう」
ものごころ付いた頃にはもう、北の城に居場所はなかった。
たまに公務で顔を合わせても父は笑顔を向けてはくれなかった。抱いてもくれなかった。離宮で数少ない使用人と暮らし、疎まれたまま大きくなった。
年頃になり政略の駒としての価値を見出されるまでは。
「使用人にも父の厳しい目があって、離れて暮らしていても泣いたり笑ったりすると使用人が罰せられました」
何度かそんなことがあり、クリスティーナは感情を手放した。
それしか生き方を知らないのだから仕方がない。ただ、ここでは段々とそれが苦しくなり、流産で決定的になった。母親になれる。その喜びが大きかった分だけ喪失は苦しい。おまけに役立たずにもなってしまった。
泣きたいのに泣けない。泣かない。笑えない。それが自分だ。
淡々と言ってのけるクリスティーナにランドルフはしばし言葉を失う。
自分とて親と親密だったかと聞かれると王族の常としか答えようがない。ただ少なくとも疎まれたり憎まれたりはしていない。
北での日々がどれほど寒々しかったのか。氷の王妃と揶揄を含んだあだ名をぴったりだと思い、クリスティーナに投げつけてきたことをランドルフは恥じた。
加えてクリスティーナが流産した時、自分はいたわりの言葉をかけるでもなく非を責めた。あの時の硝子のような眼差しが、胸をえぐる。
どちらのグラスも中身が空になり、クリスティーナは静かにグラスを置いた。
「もう遅くなりました。明日にさしつかえます」
お休みなさいませ、と頭を下げるクリスティーナをランドルフは抱きよせて、寝台へと歩をすすめる。上掛けをめくってクリスティーナを横たえた。
「陛下」
「ここで休む」
「ブレンダ様のところに」
「他の女の話はするな」
珍しく焦っているのかクリスティーナの声が上ずっている。
自分の知らない顔ばかり見せる、とランドルフは新鮮にも思う。
「わたくしに関わるのは時間の無駄です」
「私の時間の価値は私が決める」
両手で頬を包み目を合わせた。薄青い瞳が、落ち着きなくさまよう。
「――笑って見せてくれ」
大きく見開かれた目がランドルフをとらえる。クリスティーナは笑おうとしたのだろう、口の端がひきつるように上がった。
「――できません」
「そなたは不器用なのだな」
気付くまでに遠回りした。ランドルフは忍びやかに笑って唇を重ねた。