05 抱擁
――王妃様がおかしなことを始められたらしい。
噂は密やかに語られ始めた。
孤児院を訪問したクリスティーナ達は、宰相が用意した城下の屋敷に落ち着いた。使用人も少ないその屋敷は、芝生と潅木の庭を有していた。庭を眺めたクリスティーナは宰相の配慮を感じる。
ジェーンがお茶を淹れ、エルマと三人でテーブルについた。渋るジェーンだったが、クリスティーナがお座りなさいと言っただけで観念してテーブルを囲む。
お茶を飲んでクリスティーナはふう、と息を吐いた。
「王妃様、お考えを私どもにお教え願えませんか?」
エルマの質問に、ジェーンも内心で同意してクリスティーナの表情を伺う。そこにあるのは氷の王妃に相応しい、いつもと変わらない無表情だった。
テーブルの上にほっそりとした手をのせて、クリスティーナは指を組み合わせた。
「慈善事業に興味があったのは本当。今回のことで、わたくしの城内の居場所は縮小することが目に見えているでしょう?
貴族の方々は……ジェーン、ごめんなさいね。陛下と侯爵になびくでしょう。だから城外でわたくしにできることがないか模索したの」
淡々と現状と今後を指摘するクリスティーナにエルマもジェーンも黙り込んだ。
側妃に子供ができればその勢いはますます盛んになる。王妃は有名無実の、本当のお飾りになる。最悪王妃を廃そうとする動きが起こるかもしれない。
一国の王女を迎えたのだから実現は難しいかもしれないが、国同士の勢力は不均衡なのでごり押しが通らないとも限らない。
ただそれが孤児院の援助とどう繋がるというのだろうか。
ジェーンは首をひねるが、エルマはクリスティーナの意図に気付いたようだ。
「王妃様。まわりくどうございます」
「わたくしにとっても未知のことなのだから、時間をかけてじっくりやっていきたいの」
そう言って、クリスティーナは庭の緑を眺めた。
「それはそうと王妃様、なぜこのような屋敷を用意させたのですか?」
「ここに人を置いて孤児院との連絡所のように使いたいと思ったのが一つ。もう一つは孤児院で病気をもらうかもしれないでしょう?
すぐに城に戻るとわたくしたちが病気を持ち込んでしまうかもしれない。だからここはいわば隔離の場のようなものでもあるの」
公務があるからそんなに長くいられるわけではないけれど、と断ってここでできる執務をするのだと言う。
「あとね、手芸でもしようと思って」
ここで刺繍やらレース編みをしたいのだと。時間が潰せるし作品は孤児院で売らせて収益にあてたいと。
「ゆくゆくは孤児院の子供達にも作らせたいの。針の技術も教えて、男の子は職人に弟子入りさせて金属加工でも覚えてもらいたいわ」
「それでお針子には職……ですか」
「教育と技術があれば生きていきやすいでしょう。わたくしはわたくしの考えがどこまで通用するか試してみたいの」
だからすでにある孤児院に手を貸す形で、事業をしてみたい。
ゆくゆくは育った人材を使ってみたい。城外に出るときのことを想定して。
クリスティーナは自業自得の孤立と自分の立場を評価している。このまま城に居続けるには多大な努力を要し、危険と隣り合わせになる。『事故』はいたるところで起きても不思議ではないのだから。
慈悲で離宮にこもることを赦されればいい。最悪は命を狙われることになる。あるいはこちらに汚名をきせて放り出されるか。
帰る場所はとうにない。ならば。
「わたくしの気まぐれにつきあってもらえると都合が良いのだけれど」
エルマは小さく溜息をつき、ジェーンはしっかりと頷いた。
気まぐれというには大掛かりで長い時間も必要なのだが、クリスティーナが自分で望んだ珍しいことでもある。
「それならさっそく始めましょうか」
三人で椅子に座って刺繍を始めた。糸や布も大量に運び込まれていてエルマはクリスティーナの用意周到さに内心驚きと呆れを覚えた。クリスティーナは慣れた手つきで緑と鳥を刺繍している。
王妃手ずからの刺繍……美談とともに売りつければ、高値で買う貴族や商人は多いだろう。孤児院の知名度も上がる。興味が持たれれば養子や住み込みで雇おうかとする流れもおきるかもしれない。
親のいない子供達を、子供を失った王妃が援助する。
尊い行為のはずなのに、エルマは寂しさを抑えられなかった。
週に一度か十日に一度程度、王妃は城をあけて翌日か翌々日に戻る。三ヶ月も過ぎようかとしていた頃には、その行動は様々な憶測を呼び格好のお茶会の話題にもなっていた。
「地味な格好をなさって城を出られるのですって」
「ブレンダ様が時めいていらっしゃるので、居辛いのではなくて?」
「元々が北の、言うなれば田舎のご出身ですし、城外の方がお気が楽なのかもしれませんね」
まあ、と貴族の夫人や令嬢たちが笑いさざめく。
「王妃様は孤児院に足をお運びだそうよ」
情報通と名高い伯爵夫人の言葉に、あらと失望ともとれる声があがる。慈善事業であれば――つまらないこと。
もっと面白い秘密だと思ったのにといった空気が広がる。
「ブレンダ様、王妃様はあなた様に遠慮なさっているのかもしれません。この機会に陛下の関心を独り占めになさってくださいな」
「まあ、皆様ったら。それは王妃様に失礼ではなくて?」
ブレンダは目の色に合わせたドレスを着て、それに負けないほど輝く瞳を話を向けた夫人にあてる。国王に愛されている自信は、美しい侯爵令嬢をますます魅力的に見せていた。今を盛りに咲き誇る大輪の花のようだ。
実家の侯爵家も財力や地位は申し分ない。元は有力な王妃候補だったこともあって、気品に満ちている。
「いいえ、王妃様が陛下のお子様を残念なことにしてしまった後ですもの」
ブレンダが世継ぎを産めば、このお茶会に参加している貴族達にもおこぼれはあるだろう。
人形のような他国出身の王妃では、取り入っても旨味は少ない。そう判断して割りに早い時期から王妃の周囲から有力貴族の取り巻きは消えた。
代わりに蜜に群がるかのように、側妃になったブレンダの周囲は華やかだ。
「こればかりは私だけでは無理な話ですもの。気長に待ちますわ」
ブレンダの輝く笑顔からはそんなに長く待つ必要もないだろう。お茶会の参加者の間で明るい未来を確信するような、そんな空気が広がった。
ランドルフは宰相からクリスティーナの行動の報告を受けていた。
「孤児院の修繕を済ませ、近隣の土地と建物を買い上げて年長の者の宿舎と工房を作らせました。教師も手配して読み書きや計算を教えているようです」
「随分と入れ込んでいるようだな」
「年長の少年少女を宿舎から職人のところに通わせているようです。住み込みですと扱いが過酷な場合がありますので、通いにさせていると聞き及びました」
こざっぱりした服を着て、意欲に燃えた年長の少年少女が職人の下で技術を学んでいるそうだ。
相場よりも安い賃金で構わないから雇って教えてくれと王妃からの書簡もつけていたらしく、職人にも孤児院側にも益がある。
「王妃は何をしているのだ」
「子供達の相手をしたり、一緒に遊んだりしているそうです」
「あれが、子供と遊ぶだと?」
ランドルフはにわかには信じられない。人形のような氷の王妃が子供達と遊ぶ? 何かの冗談だろうか。
「私をかつぐつもりか?」
「いいえ、事実です」
「……王妃が次に孤児院を訪れるのはいつだ?」
装飾を抑えた地味な馬車で乗り付ければ、子供達の元気の良い声が聞こえる。
目立たないように周囲に配された護衛は宰相の指示だろう。直近の近衛は二人と聞いているが、要所に軽く十人以上が目を光らせている。
国王と認めて緊張の色を濃くする彼らに軽く頷いて、ランドルフは孤児院の門をくぐった。孤児院の庭は買い入れた土地を続きの庭にしたようで、まだ土の所が半分、緑の所が半分といったところだ。
寒い中で子供達は元気に散らばっている。だが、どの子も一様に声を殺し、気配を消そうとしていた。
何をしているのだろうと恐縮している院長の後から庭に回る。
そこには目隠しをして、子供達を探そうとする王妃の姿があった。
「いいわよ。静かに逃げて」
そう言いながら、腕を前に伸ばして歩き始める。子供達はわざと王妃に近づき、気配に気付いた王妃がそちらを向くと手が届かないように逃げたり、しゃがんだり。それを見て他の子供達が口に手を当てて笑いをこらえている。
遠くで王妃様こっちと声をかけて王妃が近づくと、忍び足でよそに逃げる。
ランドルフはこの光景を黙って見入る。初めて見る王妃の姿だ。
素材と仕立てはいいのに地味に作ってあるドレスを着て、歩きやすそうな靴を履き、髪の毛も上の方で軽く結んで下半分は背中に流している。
音だけを頼りに子供達をつかまえようと戯れている。
――私の見ているものは何だ? 本当に王妃なのか? ランドルフは自分の目で確認しながらもまだ半信半疑だった。
そのうちに何かの加減でか王妃がこちらに歩を進める。子供達のように避けようかと思った。孤児院で子供達と遊ぶという王妃の姿を確認できたのだから、目的はもう果たした。このままこっそりと馬車に戻ればいい。それでいいはずなのに。
付き従う近衛達が何とも言えない表情で自分を見ていることにも気づいているが、ランドルフはあえてその場を動こうとはしなかった。
クリスティーナの伸ばした手が自分の服に触れた、と思った次の瞬間。
「つかまえた」
初めて聞く興奮を含んだ声と共に胸の周りに腕を回された。抱きつかれたランドルフは驚きで声も出せずに、クリスティーナを見下ろす。
「誰かしら、男の子ね。ジョージ? それともニール? こんなに大きな子がいたかしら。近衛の人にはちゃんとよけるように言ってあるのだけれど」
クリスティーナが少し身を引いて離れようとした。自分でも何をしているか自覚せずに、ランドルフはクリスティーナの腰に腕をまわしていた。
片腕でクリスティーナを抱き、頭の後ろで結ばれた目隠しの結び目に手を伸ばした。
「誰です、わたくしを離しなさい」
固い声で離れようとするのを赦さずに、ランドルフは布を取り去った。待ちかねたように見上げた、薄青い瞳が驚きで揺らめいている。
昼の光の中で、これほど間近で見つめ合ったことはなかった。
「陛下、どうしてこんな所にいらっしゃるのですか」
かすれたような声がなぜか人間くさく聞こえて、ランドルフはこれは本当に氷の王妃だろうかと腕の中の存在を疑問に思うのを禁じえなかった。