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未来の私から過去のあなたへ、感謝を込めて花束を。

作者: 村崎羯諦
掲載日:2026/11/07

 私が目覚めた時、ありがとうって言うべきあなたはもういなかった。


「おはようございます。気分はいかがでしょうか? 意識や記憶ははっきりしていますか?」


 ぼんやりとした意識のまま、私は白衣を着た医者の顔をまじまじと見る。見慣れない顔に病室の無機質な天井、自分に被せられた掛け布団の重み。さっきまで見ていた夢の輪郭が解け、代わりに現実が少しずつ形を取り戻していく。


 そこで私は思い出す。


 小さく頷いてから声を出そうとするが、うまく声が出ない。何度か口を開けたり閉じたりして、忘れていた感覚をなんとか思い出しながら、掠れ声で医者に問いかける。


「私は何年眠ってたんですか?」


 医者が気まずそうな顔をする。


 その顔を見て、私は少しだけ落胆する。まあ、最初からそれくらいは覚悟していたし、今さらどうこう言っても仕方がない。


「二十年ですか? 三十年ですか?」


 医者は答えない。私がもう一度尋ねようとすると、医者がようやく重たい口を開いた。


「七十年です」

「七十年?」


 医者が頷く。


「はい。あなたがコールドスリープで長い眠りについたのが、今から七十年前のことです。それから長い時間をかけて、ようやく治療方法が確立されました。お待たせしてしまって、本当に申し訳ありません」


*


長い眠りから目覚めた後に感じたこと。


身体の気怠さ。塩素の臭い。口の中の乾き。それから、空腹を告げるお腹の虫の音。


 ちなみに七十年ぶりの食事は、味の薄いスープ。おかわりは禁止。


*


 それからのことは、あまり覚えていない。


 私は丸一日かけて、見たこともないハイテクそうな機械で身体を隅々まで検査された。翌日にはすぐに手術。手術はあっけないくらいすぐに終わり、当日の夕方には担当医がやってきて、無事に成功したことを報告してくれた。


「しばらくは経過観察が必要ですが、病気そのものは完治したと考えていただいて大丈夫です」

「そうですか。ありがとうございます」

「今の時代では、飯橋さんのような長期コールドスリープから目覚めた方への支援も充実しています。社会復帰については、専門の担当者から説明があると思いますので」


 医者はそう言って、にこやかに病室を出ていった。


 病気が治ったらしい。七十年前にはどうしようもないと言われていた私の病気が。その事実が七十年という年月の重みを実感させる。


 医者の次にやってきたのは、私がコールドスリープを依頼した企業の担当者だった。


 企業名は変わっていたけれど、どうやら同じ会社らしい。七十年も経っているのだから、途中で潰れてしまっていてもおかしくなかったと思う。そうならずによかった。


 担当者は若い男性で、いかにも仕事ができそうな雰囲気だった。退院後の住まいや生活費、現代社会について学ぶための講義、就職支援など、必要な制度が一通り用意されているらしい。


「あの、一つ聞いてもいいですか?」


 そこで私はずっと聞けずにいた疑問をぶつけてみる。


「はい。何でしょうか?」

「確か私が申し込んだのって、最長五十年のプランだったと思うんですが……」

「はい。記録でも確認できています」

「その、超えた二十年分のお金って、どうなってるんですか?」


 私の質問に、担当者が一瞬キョトンとした顔をする。それから、少し確認しますねと断りを入れ、自分のこめかみに指を当てながら目を閉じた。


 しばらく待っていると、担当者が目を開けた。


「お待たせしました。契約管理部門に確認が取れました」

「はあ」

「飯橋さんの超過分については、すでに別の方からお支払いいただいておりますので、追加の請求はありません。ご安心ください」

「そうなんですか」

「はい。ちなみに、契約期間を過ぎても治療方法が確立されていない場合は、追加契約によって保管期間を延長できる仕組みになっています。飯橋さんの場合は、その手続きが適切に行われていたようです」


 七十年も経っているんだから、利息だとか物価の変動だとか、色々と面倒なことになっているのではないかと思っていた。とりあえず、目覚めた途端に借金まみれということにはならずに済んだらしい。


 それにしても、誰が支払ってくれたんだろう。


「えっと、私には身寄りもないですし、一体誰が払ったんですか?」

「確認いたしますね」


 担当者が再び目を閉じ、すぐに目を開ける。


「本多美奈子さんという方です。特に血縁関係ではないようですが、ご友人でしょうか?」

「ああ」


 私は頷く。


「はい、私の友達です」


*


 私が七十年前の人間だということで、資料を紙の形式でもらった。


 飯橋さんの時代では、まだ書類の電子化は全然普及していなかったと聞いていますので、と担当者の言葉。


 当たらず、とも遠からず。


*


「多分、皆様がコールドスリープから目覚めて一番驚いたのは、こんなに社会が変わったんだという事実ではなく、そんなに社会が変わっていないという事実だと思います」


 長期コールドスリープから目覚めた人を対象に、コールドスリープ各社が協賛して社会復帰を支援するための講義を開いてくれていた。


 参加者は私の他にも十名ほどいて、隣の席に座ったおばさんは三十年間コールドスリープしていた人だった。


 私が七十年間眠っていたと話すと、ずいぶん先輩ですねと言われた。


「もちろん、細かい技術の発展はあります。医療、通信、交通、エネルギーなど、様々な分野で大きな進歩がありました。ただ、例えば二十世紀や二十一世紀初頭に見られたような劇的な社会構造の変化は落ち着き、現在は比較的緩やかに社会が変化しています。社会学の文脈では、成熟しきった社会と呼ばれたりもしています」


 私は事前に配布されていたノート型の電子機器でメモを取る。ふと顔を上げると、講師を務めているアンドロイドと目が合った。アンドロイドは、誰にも気づかれないくらいの小さな笑みを返してくる。私も微笑み返しながらもう一度メモを取る。


 昔と今ではそんなに社会は変わってない。


 だけど、実際アンドロイドの言う通りだった。人は皆変わらず自分の足で歩いているし、おかしかったら笑うし、時間が経てばお腹が空く。街には相変わらず車(自動運転だけど)が走っているし、電車に乗るにはお金がかかる。雨が降れば傘を差すし、朝の通勤電車は今でも混雑しているらしい。


 少しだけ残念で、だけどほっとした。


 授業が終わり、他の受講者たちも立ち上がって教室を出て行く。


 私も帰ろうと思ってノート型の電子機器を鞄にしまっていると、突然後ろから声をかけられた。


「あの、すみません。少しだけお時間よろしいでしょうか?」


 振り返ると、私と同い年くらいの女性が立っていた。


 彼女は雑誌記者だと名乗り、長期コールドスリープから目覚めた人への取材を行っているのだと説明してくれた。


まだ社会復帰もしておらず、毎日暇だった私は大丈夫ですよと答える。取材は授業が行われた部屋で、そのまま行われることになった。


「それでは、よろしくお願いします」

「はい。こちらこそ」

「まず、七十年ぶりに目覚めた時の感想をお聞きしてもよろしいですか?」

「そうですね。とりあえず、お腹が空いてました」


 記者が一瞬だけ手を止める。


「お腹が?」

「はい。七十年も寝てたんですから、そりゃあお腹も空きますよね」

「なるほど……」


 記者は何やら手元の端末に書き込んでいる。冗談のつもりだったんだけど、どうやら真面目に受け取られてしまったらしい。


 その後も取材は続いた。


 切り口は単純で、昔の時代から見て現代はどう映るかというものだった。


 記者は現在の社会問題について一つ一つ説明し、それを過去の人間である私がどう感じるかを尋ねてきた。


 例えば、仕事の大部分が自動化されたことによって、人間の働く意味が問われるようになったという話。


 あるいは、医療技術が発展して平均寿命が大きく延びた一方で、社会保障制度が追いついていないという話。


 他にも、便利な技術が増えすぎて、かえって生活が不便になっているとか。


「やはり、昔の方が良かったと思われますか?」


 取材の終盤、記者がそんなことを聞いてきた。


「うーん、どうでしょう」

「現代社会には様々な問題がありますし、昔の方が人間らしい生活ができていたという意見もあるんです」

「そうなんですか」

「はい。実際、昔の時代から来られた方のお話を伺っていると、今の社会が失ってしまったものも多いのではないかと感じます」


 記者はそう言って、私の返事を待っている私は少し考えた。


「でも、私の病気は治りましたからね」

「え?」

「昔は治らなかったんですよ。だから、少なくとも私にとっては今の方がいい時代です」

「それは、そうかもしれませんが……」

「それに、昔だって色々ありましたよ。仕事がなくなるとか、機械に人間の仕事を奪われるとか、そういう話もありましたし」


 記者は少し困ったような顔をした。どうやら、あまり期待していた答えではなかったらしい。


「もちろん、今の時代にも色々と問題はあるんでしょうけど」

「はい」

「でも、七十年前もそんなに大した時代じゃなかったですよ。そういう意味だと今も昔も変わらないのかもしれないです」


 そう言うと、記者は小さく笑った。


「なるほど。貴重なご意見ありがとうございます」


 取材はそれで終わりになった。記者は端末に何やら操作をしてから立ち上がる。


「本日はありがとうございました。記事が完成しましたら、確認用にお送りさせていただきますね」


 私も鞄を持って立ち上がろうとすると、記者が、そうそうと振り返った。


「最後にもう一つだけ、聞いてもいいですか?」

「はい?」

「取材した方には、皆さん同じ質問をしているんです。もし昔に戻れるとしたら、一番何をしたいですか?」


 私は少しだけ笑い、鞄を手に持ちながら答えた。


「友達にありがとうって伝えたいですね」


*


 帰り、トイレに行こうかなと思ったけど、ちょうど前の方でさっきの記者がトイレに入っていくのを見てしまう。


 少しだけ悩んでから、私は二階のトイレに行くことにした。


*


「お墓に供えるお花をください」


 近所で見つけた個人の花屋。


 ちょび髭を生やした店主らしい人に伝えると、彼は顎を触りながら、お安い御用ですと答えてくれた。


 この時代にもこういう人がいるのか、それともこの時代だからこういう人がいるのかは分からなかったけど、人は良さそうだった。


「承知しました。お色のご希望などは?」

「特にないです。お任せします」


 少々お待ちください。店主はそう言って、店の奥へ引っ込んでいった。


 私は待っている間、店内に飾られた花を眺めてみる。色とりどりの花が並んでいたけれど、正直なところ、私にはどれが何という名前の花なのかよく分からなかった。


 店内を見て回っていると、一角だけ妙なスペースがあることに気がついた。


 他の商品には綺麗な文字で名前や説明が書かれているのに、そこだけやけに大きくてガサツな文字が並んでいる。


『絶対に枯れない花! ただし水をあげないと枯れます!』

『世界で一番美しい花! ※当店調べ』

『恋愛成就間違いなし! 効果には個人差があります!』


 何だこれは。私は思わず笑ってしまった。どうやら店主の趣味らしい。それはそれで見ていて楽しかったので、一つ一つ眺めていると、ふとそのうちの一つに目が留まった。


『超絶SF! この花束は過去へ送ることができます!』


 私は立ち止まる。説明には、それ以上のことは書かれていなかった。


 値段は他の花束より少し高いくらいで、見た目も普通の花束だった。特別な機械が付いているわけでもないし、花そのものが光っているわけでもない。


 どうやって過去に送るんだろう。


 私が首を傾げていると、いつの間にか後ろに立っていた若い女性の店員が声をかけてきた。


「あー、うちの父……じゃなくて、店長がすいません。それ、でたらめしか書いてないので、真に受けないでくださいね」


 店員は呆れたような顔で説明してくれた。


「本当に過去に送れるんですか?」

「送れませんよ」


 即答だった。


「父が変なSF小説を読んで、急に思いついたみたいで。過去に送れる花束なんて、そんなものあるわけないじゃないですか。そもそも、どうやって送るんだって話ですよね」


 確かにと私が頷く。


「でも、不思議なことに、たまーに買われる方がいるんですよね。そんなことできませんよって説明してるのに。それでもいいからって」


 店員は肩をすくめる。


「そんなに皆さん、過去の誰かにお花を送りたいんですかね?」


 私はもう一度花を見ると、値札の横には、小さな文字で『返品不可』と書かれていた。なかなか商売上手だと思う。


「お待たせしました!」


 そのタイミングで店主が戻ってきた。手には、綺麗にまとめられた花束を持っていた。お会計を済ませ、花束を受け取る。


 外に出ると、思っていたより日差しが強かった。私は花束を抱え直して、駅へと向かった。


 駅に着くとちょうど電車がやってきて、私は小走りで駆け込む。駆け込み乗車はおやめください。駅のホームから自動音声で注意される。


 車内は思っていたより空いていて、私は窓際の席に座ることができた。


 窓から差し込む日差しを浴びながら、私は外の景色を眺める。建物の形や高さは、私がいた時代とそれほど変わらなかった。ただ、時折流れる電子広告の見慣れない配色を見て、今が七十年後の未来だということをハッと思い出す。


 向かいの席では、小さな子供が母親に何かをねだっていた。母親は困ったような顔をして、あとでね、と答えている。


 窓から差し込む日差しがやけに暑かったので、背中側のカーテンを下ろして、日差しを遮断する。膝の上の花束を持ち直すと、一瞬だけ花の香りがふわっと漂った。


 配給された携帯端末で道を確認しながら、目的のお寺に向かった。


 境内には私の他にも何人か人がいた。


 お墓参りに来たらしい老夫婦が、手に持った桶を二人で運んでいる。小さな子供を連れた女性もいて、子供は石畳の隙間に生えている雑草を一生懸命引っ張っていた。


 本堂の横にある事務所へ向かい、お墓の場所を聞いた。個別のお墓ではなく、合葬墓という場所に納骨されているのだと教えてもらう。今の時代はそういうものもあるのかと一人で納得したが、歩いているうちに私が知らないだけで昔からあったものなのかもしれないと思い直す。


 合葬墓はすぐに見つかった。


 大きな石碑の周りに花が供えられていて、正面には何やら立派な文字が彫られている。私は桶を地面に置き、石碑の周りをぐるりと見て回った。


 特に何かがあるわけでもなかった。花を供える場所があって、その横には線香を立てるための台がある。


 私は持ってきた花束を包みから取り出し、供花台の空いている場所に置いた。


 それから、石碑の前で目を閉じ、手を合わせた。しばらくしてから目を開け、久しぶりと呟く。そして、ずっと胸に溜めていた言葉を口に出す。


「延長料金を立て替えてくれてありがとう。欲を言うなら、どうやって返せばいいかも伝言を残しておいて欲しかったです」


 目の前には、相変わらず大きな石碑が立っている。美奈子が本当にここにいるのかも分からなかったし、こんなこと言われてもどうしようもないだろうなとは思う


 伝えるべき相手がそもそもいないのだから、私の自己満足。でもそんなことを考えてたらキリがないので、あまり考えないことにした。


*


 お寺で一番大きい墓石の前を通り過ぎた時、石碑に目が止まった。ここらで長年活動していた地元の有志で地方議員らしい。


 没年と享年を見てみる。私よりも年下だった。


*


 別に趣味が合うわけでもなかったし、考え方が似ているわけでもなかった。


 美奈子は私が面白いと思うものを大抵つまらないと言ったし、私も美奈子が好きなものにはあまり興味がなかった。


 休みの日にどこかへ遊びに行くこともあったけど、別に二人で何かをするわけでもなかった。


 片方が本を読んでいて、もう片方が携帯をいじっている。そんなことの方が多かったかもしれない。


 それでも、私たちは同じ児童養護施設で育って、同じ学校に通い、同じ行事に参加して、同じご飯を食べた。


 だから私たちは何となく、ずっと一緒にいた。


 一緒にいたいという理由が特になかったので、一緒にいない理由も見つからなかった。


 多分、そういうことだったのだと思う。


 お寺を出てから、私は携帯端末で地図を開いた。それからすぐに地図はいらないと判断して携帯端末を閉じ、歩き始める。


 昔は小さな商店が並んでいた通りに、大きな集合住宅が建っている。駅前にあった古い映画館もなくなっていて、代わりに何やら立派な建物ができていた。


 ただ、曲がり角の位置も、坂道の勾配も、大体覚えている通りだった。


 途中で見覚えのある公園を見つけた。遊具はすっかり新しくなっていたけど、中央にある大きな木は昔のままだった。


 私は公園を通り過ぎ、そのまま坂道を上った。しばらくすると、見覚えのある建物が見えてきた。


 そこは私と美奈子が通っていた児童養護施設だった。


 当然だけど建物はすっかり新しくなっていた。昔は白い壁の二階建てだったけど、今では三階建ての立派な建物になっている。


 ただ名前は変わってないらしく、入口には見慣れた施設の名前が書かれていた。


 私は門の前で立ち止まり、外から建物を眺める。


 窓の向こうには、子供たちが何人か見えた。小さな子が廊下を走っていて、後ろから職員らしい人が追いかけている。危ないから走らないで、と声が聞こえた。


 私も昔もよく言われてたな。少しだけ笑った。


 そのタイミングで入口の扉が開いて、職員らしい女性が出てきた。門の前で立っていた私と目が合い、軽く会釈する。


「あの、何かご用でしょうか?」

「あ、すみません。ちょっと懐かしくて」

「懐かしい?」

「昔、ここに住んでたんです」


 女性は少し驚いたような顔をした。


「そうだったんですね。卒園された方ですか?」

「はい。まあ、ずいぶん昔の話なんですけど」

「お知り合いの職員がいるのであれば声をかけてきましょうか?」

「ありがとうございます。でも、大丈夫です。卒園したのは七十年以上前で、お世話になった方はもういないでしょうし」


 はあ。職員は戸惑いの表情を浮かべながらも、にこやかに笑ってくれる。その優しさが申し訳ない。


「建物は変わりましたけど、今でも子供たちは元気に過ごしていますよ」

「みたいですね」


 それから、何かあればいつでもお立ち寄りくださいと言って、建物の中へ戻っていった。


 私はもう一度、施設を見上げる。七十年も経っているのに、あまり変わっていない。建物も、職員も、子供たちも、もちろん昔とは違う。でも、何となく同じような場所だった。


 私は門の前を離れ、来た道を引き返す。そして、ここで一緒に過ごした美奈子のことを思い出す。


*


 児童養護施設の思い出。


*


 七十年前。美奈子に病気のことを話したのは、余命宣告を受けてからしばらく経った頃だった。


 特に隠していたわけではない。ただ、わざわざ話す機会がなかっただけ。


 美奈子は私の話を最後まで聞いて、それから、ふうん、と言った。


「それで?」

「それでって?」

「どうすんの?」

「どうするって言われてもね。治らないらしいし」

「そう」


 美奈子はそれ以上何も言わなかった。それから何日か経った頃、美奈子が一冊の資料を持ってきた。


「これ」

「何?」

「見れば分かるでしょ」


 表紙には、コールドスリープという文字が大きく書かれていた。私はページをめくる。当時、コールドスリープという技術はまだ一般的ではなかった。


 治療方法のない病気にかかった人間が、未来の医療技術に望みを託して長い眠りにつく。


 そんな説明が書かれていた。


「へえ。こんなのあるんだ」

「あるらしいよ」

「高そう」

「高いね」


 資料の後ろの方には料金表も載っていた。なるほど、確かに高い。でも、払えない金額ではなかった。


 亡くなった親から相続したお金が残っていたし、特に大きな買い物をする予定もなかった。


 どうせ使い道がないなら、施設に寄付するのもいいかもしれない。


 ちょうどそんなことを考えていたところだった。


「最長で五十年かあ」


 私は資料を眺めながら言った。


「五十年も経ったら、ずいぶん世の中変わってそうだね」

「そうだね」

「車とか空飛んでるかな」

「飛んでるんじゃない?」

「街を歩いてるのは人間よりもロボットが多かったり」

「そうかもね」

「適当だなあ」


 美奈子は笑った。私はもう一度、料金表を見る。治療法が早く見つかればその分早く起きることになるが、それでも最長で五十年。

途方もなく長い時間。ただ、眠っている本人にとっては一瞬なのだろう。


「まあ、考えとくよ」

「うん」


 美奈子はそれだけ言って、帰っていった。資料は置いていった。私は資料をもう一度手に取る。資料のあちこちのページで何度も読み返された跡があり、重要そうな箇所には赤文字で丸がつけられていた。私は素直じゃないなと少しだけ笑い、もらった資料を大事な書類置き場へとしまった。


 その後、私はコールドスリープを申し込むことにした。


 契約の手続きは思っていたより面倒で、何度も書類を書かされた。本人確認だとか、医療機関からの証明書だとか、財産の管理についての取り決めだとか。


 それでも何とか手続きを済ませ、いよいよ眠りにつく日がやってきた。


 美奈子は見送りに来てくれた。


 病室のような部屋で、私はベッドに腰掛けていた。医者からは、眠りにつくまでの流れや注意事項について説明を受けた。特に問題がなければ、次に目覚めるのは治療方法が確立された時になるらしい。


「じゃあ、そろそろ」


 私は立ち上がる。


「うん」

「五十年も経ったら、すっかり美奈子もおばあさんだね」

「そっちだけ若いままなの、何かむかつくね」

「いいでしょ」

「まあ、せいぜい楽しみにしときなよ。悔しがるくらいに、かっこいいマダムになってるから」

「はいはい」


 私は笑った。


 それから医者に呼ばれ、部屋の奥へ向かった。振り返ると、美奈子はまだそこに立っていた。


「じゃあ、また」

「うん。またね」


 私は軽く手を振った。美奈子も手を振り返した。


 施設からの帰り道、私は昔よく通った商店街を歩いていた。


 今ではすっかり店が入れ替わっていて、見覚えのあるものはほとんど残っていなかった。それでも、道の端にある古いお地蔵様だけは、昔のままだった。


 駅に着く頃には、日が少し傾き始めていた。ちょうどやってきた電車に乗る。車内は思っていたより空いていて、私は窓際の席に座ることができた。


 窓では空では見慣れない形の飛行機が飛んでいた。ただ、やっぱり車は飛んでいないらしいし、講義はアンドロイドが行なってくれるけど街を歩いているのは人間が大多数だった。


 少しだけ残念で、少しだけ、ほっとした。


 車内放送が次の駅を知らせた私は鞄から携帯端末を取り出して、明日の予定を確認する。


 明日も社会復帰の講義がある。午後には、新しい住まいについての説明を受けることになっていた。それから、そろそろ仕事も探さないといけない。七十年ぶりに目覚めたというのに、案外やることは多かった。


 私は端末を鞄にしまった。窓の外では、夕日が街を赤く染めている。


 大きなあくびが出て慌てて口を隠す。七十年も眠っていたのに、まだ眠いのかとおかしくなる。


 電車がゆりかごのように小さく揺れる。


 私は背もたれに身体を預けた。今日はいっぱい移動して疲れたから少しだけ眠ろうと思う。


 私はさっきお参りしたお墓と、そこに眠ってる大切な友達のことを頭に思い浮かべ、またねと小さく呟き、目を閉じた。


*


 散々悩んだけど、あの花屋で過去に送れる花を買うことにした。


 未来の私から過去のあなたへ、感謝を込めて花束を。


 多分届かないだろうけど、その時はその時で、何だまされてんのって笑ってください。

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