第八話〜呪いが、目を覚ました夜〜
それは、ほんの些細なきっかけだった。
夕方、村に一人の旅の男が入ってきたという噂を、私は特別なことだとは思わなかった。
この村は街道から少し外れているけれど、それでも時折、旅人が立ち寄ることはある。
だから、その男が酒の匂いをまとっていたことも、視線がやけに絡みつくことも、私は「よくあること」として受け流そうとしていた。
――それが、間違いだった。
村外れの道で、男に声をかけられたのは、ほんの一瞬の出来事だった。
「おい、嬢ちゃん」
振り返らなければよかった。
そう思ったときには、もう遅かった。
男の視線は、品定めをするように私をなぞり、にやりと歪む。
「ずいぶん大人しいな。怖がらなくていいだろ」
一歩、距離を詰められる。
身体が、硬直した。
触れてはいけない。
近づかれてはいけない。
頭では分かっているのに、足が動かない。
「触らないでください」
声が、震えた。
男は、鼻で笑う。
「なんだそれ。気取ってんのか」
その瞬間、腕を掴まれた。
――だめ。
恐怖が、身体の奥から一気に噴き上がる。
昔の記憶が、重なった。
指を向けられた視線。
避けられた距離。
忌み手、と囁かれた声。
逃げなければ。
でも、逃げられない。
心臓が早鐘を打ち、息が浅くなる。
触れられたくない。
壊したくない。
でも、怖い。
――助けて。
その言葉を、私は声にできなかった。
代わりに、世界が、軋んだ。
空気が、一気に冷える。
男の足元から、黒い影のようなものが広がり、地面に細かなひびが走った。
「……なんだ?」
男が怯えた声を上げる。
私の視界が、歪む。
止められない。
止まらない。
呪いが、目を覚ましてしまった。
恐怖に飲み込まれた私の感情に反応するように、影は濃くなり、周囲のものが次々と悲鳴を上げる。
石垣が砕け、地面が抉れ、男は悲鳴を上げて尻もちをついた。
「化け物……!」
その言葉が、決定打だった。
胸の奥が、音を立てて崩れる。
「――セフィ!」
その声が、闇を切り裂いた。
聞き慣れた声。
何度も名前を呼んでくれた声。
ルカ。
視界の端に、彼の姿が映る。
「動くな!」
男に向けてそう叫びながら、ルカは一直線に私のもとへ駆けてきた。
「セフィ、俺だ。見て」
必死な声だった。
でも、私は首を振ることしかできない。
「だめ……来ないで……」
呪いが、まだ暴れている。
触れたら、彼まで――。
まずい。
一目で分かった。
これは――暴走だ。
恐怖に飲み込まれた感情が、制御を失って噴き出している。
このままじゃ、彼女自身が壊れる。
――それでも。
足は止まらなかった。
理屈じゃない。
理由も、まだ分からない。
でも彼女を一人にしてはいけないと、身体が先に動いた。
「セフィ」
ルカは、私の目の前で立ち止まり、ゆっくりと手を広げた。
「大丈夫だ。俺はここにいる」
影が、彼の足元まで迫る。
それでも、彼は逃げない。
「怖かったな」
その一言で、涙が溢れた。
「……ごめんなさい……」
謝る理由なんて、どこにもないのに。
「謝るな」
ルカは、一歩、踏み出した。
そして。
私を、抱きしめた。
温度。
確かな、人の温度。
誰かに抱きしめられたのは初めてだった。
逃げる暇も、拒む暇もなかった。
でも――壊れない。
影が、静かに、音もなく薄れていく。
呪いが、解けていく。
それは、今までルカが行ってきた解呪とは、まったく違う感覚だった。
削られる痛みが、ない。
代わりに、胸の奥が、あたたかく満たされていく。
世界が、静かになる。
男は逃げるように去り、砕けた地面だけが残された。
私は、ルカの胸に顔を埋めたまま、震えていた。
「……離れないで」
声にならない声が、漏れる。
ルカは、腕に力を込めた。
「離れない」
その言葉は、迷いがなかった。
「セフィ」
彼は、私の髪に顔を埋めるようにして、静かに言った。
「俺、もう決めた」
胸が、跳ねる。
「君を守るために生きたい。……それだけじゃない」
一度、言葉を切る。
「君と、一緒に生きたい」
時間が、止まったような気がした。
「……私で、いいんですか」
かろうじて、そう聞く。
ルカは、少しだけ笑った。
「君がいいんだ」
短く、でも確かに。
私は、初めて、自分から彼の背中に腕を回した。
触れている。
でも、壊れない。
呪いは、確かに、眠っていた。
それは、終わりではなく、始まりだった。
私たちが、「一緒に生きる」という選択をした、その夜のことだった。




