第七話〜触れられなかった、夜〜
夜は、いつもより静かだった。
村の明かりは少なく、遠くで虫の声が重なっているだけで、世界が眠りに向かってゆっくりと息を整えているのが分かる。
私はその静けさの中で、一人、窓辺に座っていた。
触れない、と決めた。
距離を取る、と選んだ。
そのはずなのに、胸の奥はずっと騒がしくて、昼間よりも夜の方が、ルカの存在をはっきりと感じてしまう。
目を閉じれば、浮かぶのは彼の声だった。
「セフィ」
たったそれだけの呼び方なのに、どうしてあんなにも胸が温かくなったのだろう。
村の人たちは、私を名前で呼ばなかった。
呼ぶとしても、必要最低限で、距離を保つための呼び方だった。
――忌み手。
――あの子。
でもルカは、最初から、迷いなく私の名前を呼んだ。
それが、どれほど特別なことだったのかを、私は後から知った。
最初は、ただの驚きだった。
触れても壊れなかったこと。
恐れずに向けられる視線。
当たり前のように並んで歩く距離。
それらはすべて、私の世界には存在しなかったものだ。
でも、いつの間にか、私はそれらを「例外」ではなく、「日常」として期待するようになっていた。
それが、怖かった。
期待は、壊れる。
私が、壊してしまう。
だからこそ、距離を取ることが、正しい選択だと思った。
それでも。
――名前を呼ばれるたび、胸が軽くなった。
誰かに、ちゃんと呼ばれること。
それだけで、自分がこの世界に存在していると感じられた。
その夜、私はどうしても眠れず、家を抜け出して、村外れの道を歩いていた。
月明かりが、石畳を淡く照らしている。
触れないと決めたのに、会いたくなってしまう自分が、情けなかった。
遠くに、人影が見える。
すぐに分かった。
歩き方も、立ち止まる癖も、もう覚えてしまっていたから。
ルカは、石垣のそばに立ち、夜空を見上げていた。
声をかけるべきか、迷う。
でも、足は止まらなかった。
「……ルカ」
小さく呼ぶと、彼は驚いたように振り返った。
「セフィ」
その声が、昼よりも柔らかく聞こえたのは、夜のせいだけじゃない。
私たちは、少し離れたまま立っていた。
昼間よりも、遠い距離。
「眠れなくてさ」
ルカが、先に口を開いた。
「私も……」
私がそう言うと、ルカは少し照れたように笑う。
その笑顔を見た瞬間、胸が締めつけられた。
寂しそうに微笑むその表情から、どうしても目が離せなかった。
――最初から、そうだった。
彼が人を助けたあと、誰にも見られていない場所で、ほんの一瞬だけ浮かべるその顔。
満足でも、誇りでもない、静かな寂しさ。
私は、いつの間にか、その表情を探すようになっていた。
「……距離、取ってるよな」
ルカが、ぽつりと言う。
責める声ではなかった。
「はい」
私は、正直に頷いた。
「理由は、変わらない?」
「……変わりません」
それ以上、言葉を重ねることはできなかった。
でも、ルカはそれ以上踏み込まなかった。
ただ、少しだけ視線を逸らし、夜空を見る。
「そっか」
短い返事。
それだけで、胸が痛む。
沈黙の中で、私は考えていた。
いつから、好きになったのだろう。
触れることができたから?
それだけじゃない。
名前を呼ばれたこと。
怖がられなかったこと。
距離を測ってくれたこと。
そして何より――
私を「壊れる存在」としてではなく、「一人の人」として見てくれたこと。
それらが、少しずつ、少しずつ積み重なって、気づけば戻れない場所まで来ていた。
「セフィ」
ルカが、もう一度名前を呼ぶ。
その呼び方が、やっぱり好きだと思ってしまう。
「……触れないって選択、間違ってるとは思わない」
意外な言葉だった。
「でもさ」
彼は、少しだけこちらを見る。
「それで、君まで苦しくなるなら……それは、俺の望みじゃない」
胸が、強く揺れた。
「私は、大丈夫です」
そう答えたけれど、声は少し震えていた。
ルカは何かを言おうとしていたけれど、それ以上何も言わなかった。
ただ、距離を詰めることも、離れることもせず、その場に立ち続ける。
触れられない距離。
でも、離れすぎてもいない距離。
その曖昧さが、今の私たちそのものだった。
夜が更け、風が少し冷たくなる。
「……戻ろうか」
ルカが言う。
「はい」
私たちは、並んで歩き始める。
並んでいるけれど、触れない。
それでも、歩調が自然と揃っていることに、胸の奥が温かくなった。
――触れなくても、想いは消えない。
むしろ、触れられないからこそ、確かに存在している。
そのことを、私はこの夜、はっきりと知ってしまった。
家の前で別れるとき、ルカは少し迷ってから言った。
「おやすみ、セフィ」
「……おやすみなさい、ルカ」
名前を呼び合う、それだけのことが、こんなにも大切だなんて。
部屋に戻り、布団に入っても、胸の奥は静まらなかった。
触れられなかった夜。
でも、確かに、想いは深まっていた。
それが、少しだけ怖くて、
それ以上に、嬉しかった。




