第六話〜触れない、という選択〜
それは、はっきりとした決意というよりも、静かに沈んでいく感情だった。
ルカが自分を削りながら呪いを解いてきたことを知ってから、私は自分の中で何かが少しずつ変わっていくのを感じていた。
恐怖でも、拒絶でもない。
ただ、触れてはいけない理由が、これまでとは違う形で胸の奥に根を張ってしまったのだ。
これ以上、彼の時間を減らしたくない。
その思いは、声に出すと壊れてしまいそうで、私は何度も心の中だけで繰り返していた。
朝、家を出る前に鏡を見ると、そこに映る自分の顔は、驚くほど落ち着いて見えた。
昨日まで、あれほど揺れていたはずなのに、まるで答えを一つ見つけたあとのような静けさが、そこにはあった。
私は手袋をつける。
必要があるわけではない。
触れないための距離を、目に見える形で保つための、ただの意志表示だった。
玄関を出ると、空は澄んでいて、世界は変わらず動いている。
それが、少しだけ、悔しかった。
村の道でルカを見かけたとき、私は反射的に足を止めた。
彼は気づいて、こちらに手を振ろうとして――途中で、私の様子を察したのか、動きを止める。
「セフィ?」
名前を呼ばれて、胸が跳ねる。
それでも私は、一歩も近づかなかった。
「……おはようございます」
距離を保ったまま、そう言う。
ルカは、少し戸惑ったように眉を寄せた。
「どうしたの」
その声は、責めるものではなかったからこそ、胸に刺さった。
「いえ、何でも」
嘘だった。
でも、ここで本当のことを言ってしまえば、私はきっと、彼の前で弱くなってしまう。
それだけは、避けなければならなかった。
その日、私は意識的に、ルカと距離を取った。
話しかけられても、短く答える。
隣に並ばれそうになったら、一歩下がる。
触れないための距離。
それは、かつての私が当たり前に守ってきたもののはずなのに、今はひどく重く感じられた。
ルカは、何も言わなかった。
けれど、視線が何度もこちらに向けられていることには、気づいていた。
気づかないふりをするのが、こんなにも苦しいなんて。
夕方、村外れで一人になったとき、私はようやく息を吐いた。
胸の奥が、じくじくと痛む。
正しい選択だ。
また一人に戻っただけ。
そう言い聞かせる。
このまま時が過ぎれば、彼はそのうち村を出ていく。
そう思えば思うほど、心の奥で、別の声が小さく抗っていた。
それでも、触れたかった。
ただ、それだけなのに。
日が傾いた頃、背後から足音がした。
「セフィ」
振り返ると、ルカが立っていた。
私は反射的に、一歩下がる。
その動きに、彼の表情が一瞬だけ揺れた。
「……避けてる?」
その問いは、静かだった。
私は、しばらく言葉を探してから、ゆっくりと頷いた。
「理由、聞いてもいい?」
聞かれた瞬間、胸が締めつけられる。
言えない。
でも、言わなければ、この距離は続かない。
「……ルカのためです」
そう告げると、彼は驚いたように目を見開いた。
「俺の?」
「はい」
私は、視線を逸らしながら続ける。
「解呪には、代償があるんですよね」
ルカの呼吸が、わずかに止まるのが分かった。
「私は……それを知ってしまいました。私がルカに触れても何も起こらなかった。もしそれが解呪と同じ現象なら…それはあなたを削ることになってしまいます」
だから、と言葉を繋げる。
「これ以上、優しいあなたの時間を減らしたくありません」
言い切った瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
ルカは、しばらく黙っていた。
沈黙の中で、風の音だけが流れる。
「……それで、距離を取るって?」
ようやく出た声は、少しだけ低かった。
「はい」
私は頷く。
「触れなければ、何も起きません……」
言葉が、途中で途切れる。
私が期待しなければ、何もおきない、はず。
それを口にするのが、怖かった。
ルカは、小さく笑った。
でも、その笑顔は、どこか寂しそうだった。
「優しいな、セフィ」
その一言が、胸に突き刺さる。
優しさで距離を取ることが、こんなにも残酷だなんて、私は知らなかった。
「でもさ」
ルカは、少しだけ前に出る。
私は、動けなかった。
「それ、俺が決めることじゃない?」
その言葉に、息を呑む。
「君が俺を気遣ってくれるのは、嬉しい。でも、俺の時間をどう使うかは、俺が選びたい」
正論だった。
だからこそ、苦しい。
「……それでも」
私は、必死に言葉を絞り出す。
「私は、あなたに苦しい思いをしてほしくないんです」
その本音を口にした瞬間、涙が滲んだ。
ルカは、何も言わなかった。
ただ、私の前で立ち止まり、手を伸ばしかけて――止めた。
触れない。
その選択を、彼も尊重してしまった。
夜、一人で布団に入ると、胸の奥が空っぽになったような気がした。
正しい選択をしたはずなのに、何も満たされない。
触れないことで守れるものがあると、信じたかった。
でも同時に、触れないことで失っているものが、確かに存在していることも、私は知ってしまった。
それでも。
私は、この選択を後悔しない。
たとえ、この距離が、二人のあいだに深い溝を作ったとしても。
あなたが少しでも長く生きていてくれるなら。
それだけを願いながら、私は目を閉じた。




