第四話〜命を削る手の、理由〜
その日、村に一人の男が運び込まれた。
朝から騒がしく、人が集まっている気配がして、私は何が起きたのかも分からないまま、少し離れた場所から様子をうかがっていた。
男は、腕を押さえてうずくまり、顔色が悪く、呼吸も荒い。
「呪いだ」
誰かがそう言った。
その一言で、場の空気が一気に重くなる。
呪い。
それは、この村では珍しくない言葉で、同時に、どうにもならないものを指す言葉でもあった。
誰も近づこうとしない。
治す方法がないと、皆が知っているからだ。
本来なら。
人の輪の外側で、私は無意識に手を背中に回した。
近づいてはいけない。
触れてはいけない。
そう教え込まれてきた癖が、勝手に身体を動かす。
そのとき。
「俺がやる」
人混みの中から、ルカの声がした。
周囲が一斉に振り向く。
「お前、何言ってる」
「無理だろ」
ざわめきの中で、ルカは一歩前に出た。
「解ける」
短い言葉だった。
根拠も、説明もない。
それなのに、その場の空気が一瞬だけ静まった。
私は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
彼は、男の前に膝をついた。
私は思わず、ルカの背中を見つめる。
――やめて。
理由は分からないのに、そんな言葉が喉までせり上がる。
男の体から、黒い靄のようなものが立ち上る。
見た瞬間に、分かってしまった。
これは、普通じゃない。
ルカは目を閉じ、深く息を吸った。
そして、男の腕に、そっと手を置く。
次の瞬間。
空気が、軋んだ。
靄が、ゆっくりとほどけていく。
苦しんでいた男の呼吸が、次第に落ち着いていくのが、遠くからでも分かった。
――解けている。
呪いが、確かに解かれている。
私は、ぞっとするほどの違和感を覚えた。
それは、奇跡を目の当たりにした驚きではなかった。
もっと、生々しいもの。
代わりに、何かが失われている感覚。
また一つ、減った。
胸の奥で、確かな感覚があった。
数えなくても分かる。
こういうのは、誤魔化せない。
解けるたび、確実に、何かが削れていく。
最初は、怖かった。
次は、慣れた。
今は……。
考えないようにしている。
助ける。
解く。
それだけをやる。
そうしないと、立っていられなくなるからだ。
考えるな。
今は、考えるな。
俺は思考を停止させた。
男は、しばらくして立ち上がった。
「……治ってる」
信じられない、という顔で自分の腕を見ている。
周囲がどよめいた。
感謝の言葉が飛び、安堵の声が重なる。
でも私は、ルカの顔色が、明らかに悪くなっているのを見逃さなかった。
唇の色が薄く、額にうっすらと汗が浮かんでいる。
――削られた。
そう直感的に思ってしまった自分に、背筋が冷える。
ルカは立ち上がろうとして、少しだけよろめいた。
「ルカ!」
思わず名前を呼んでいた。
彼は一瞬驚いたようにこちらを見て、それから、なんでもないように笑う。
「大丈夫だよ、セフィ」
その笑顔が怖かった。
人が散ったあと、私は我慢できずに聞いた。
「……今の、何だったんですか」
声が、震える。
「解呪」
ルカは、あっさりと言った。
それが、初めてはっきり聞く言葉だった。
「代償は?」
言ってから、息を呑む。
聞いてはいけないことだったかもしれない。
ルカは、少しだけ視線を逸らした。
「……あるよ」
それだけ。
それ以上、言わなかった。
言わないという選択が、答えだった。
夜、私は眠れなかった。
あの光景が、何度も頭に浮かぶ。
呪いが解けていく様子。
そして、その代わりに、ルカが失っていく何か。
――もしかして、命。
その言葉が、胸の奥で形を持つ。
彼は、それを承知で旅をしている。
承知で、人を救っている。
なのに。
どうして、そんな人が、私の前では壊れなかったのか。
眠れない夜の中で、私は初めてはっきりと思った。
もし、この人に触れることで、彼の命が削れるのだとしたら、私は、その手を、二度と伸ばしてはいけない。
それなのに、胸の奥では、別の声が囁いていた。
――それでも、触れたい。
その矛盾が、私を苦しめ始めていた。




