第二部・第十五話〜二重の呪い〜
古書店の空気は、昼間だというのにどこか夜の気配を残していた。
窓から差し込む光は柔らかく、本棚の間に長い影を落としている。
けれどその静けさの奥に、昨日まで感じなかった重さがあるような気がして、私は無意識にルカの隣へ少しだけ近づいた。
エリアスは机の前に立ったまま、落ち着かない様子で自分の手を見つめている。
「……すみません」
彼は何度目かの謝罪を口にした。
「昨日、解呪していただいたのに」
ルカは首を振った。
「お前が謝ることではない」
その声は落ち着いている。
けれど私は知っていた。ルカは今、かなり真剣に考えている。
彼が呪いを見誤ることはほとんどない。それなのに、今回は違った。
昨日確かに解呪したはずの呪いが、また発動している。
ルカは本棚の前で足を止めた。
エリアスが読んだという古書が、机の上に置かれている。
彼はそれを手に取り、しばらく何も言わずに触れていた。
テオドールさんが静かに尋ねる。
「やはり、古書の呪いですか」
ルカはゆっくり首を振った。
「……」
「昨日解いたのは古書の呪いの表面だけだろう」
私はその言葉を聞いて、胸の奥が少しだけざわついた。
「じゃあ……」
ルカは古書を机へ戻した。そして振り返る。視線はエリアスに向けられていた。
「もう一つある」
エリアスの顔が固まる。
「もう一つ……」
ルカは一歩近づいた。
「手を出してくれ」
エリアスが恐る恐る腕を差し出す。
ルカが触れる。
その瞬間、私はルカの背中に手を添えた。彼が集中するとき、私はいつもそばにいる。
呼吸の変化を感じる。
力の流れを感じる。
そして、必要なら癒しを流す。
ルカは目を閉じた。長い沈黙が流れる。
昨日よりも、ずっと長い。
やがてルカの呼吸が少しだけ変わった。私はその変化を感じ取る。
何かを見つけた。そう思った。
ルカが目を開く。そして低く言った。
「……お前、昔から変わったことはなかったか」
エリアスが戸惑う。
「変わったこと……?」
「人の感情に気づきやすいとか」
エリアスは少し考えた。
「それは……」
しばらく沈黙したあと、ゆっくり答える。
「言われたことはあります」
ルカは黙っている。
エリアスは続けた。
「人の気持ちに敏感だと」
彼は少しだけ苦笑した。
「怒っている人や、悲しんでいる人のことを、なんとなく感じるんです」
私は思わずルカを見る。
ルカは小さく頷いた。
「やっぱりか」
テオドールさんが聞く。
「何が分かったんです」
ルカは静かに説明した。
「エリアスの呪いは二つある」
古書店の空気が止まる。
「一つは古書の呪い」
ルカは机の上の本を指で示す。
「それは夜になると身体が透ける呪いだ」
エリアスが小さく頷く。
「それは昨日表面だけ解いた」
ルカの声は淡々としている。
「だがもう一つあったんだ。昨日は見えなかった」
ルカはエリアスを見た。
「元からの呪いだ」
エリアスが息を呑む。
「……俺の呪い?」
ルカは頷いた。
「お前は人の怨念を拾いやすい」
その言葉は静かだった。
「普通の人間は気づかないような感情を敏感に感じ取る」
エリアスの顔が少し青くなる。
「それが……呪いなんですか」
「そうだ」
ルカは続ける。
「だがそれ自体は弱い」
私はその言葉を聞きながら理解し始めていた。
エリアスはこれまで普通に生きてきた。
だから本人は呪いだと思っていない。
けれど確かに、普通の人より多くの感情を受け取ってきたのだ。
ルカが言う。
「古書の呪いが、それに触れた」
私は思わず呟く。
「……共鳴?」
ルカがこちらを見た。
「そうだ」
テオドールさんが腕を組む。
「つまり」
ルカは説明した。
「元の呪いが古書の呪いを引き寄せた。そして二つが重なった」
店の中の空気が、少しだけ重くなる。
エリアスが言う。
「じゃあ……、治らないんですか」
彼の声は震えていた。
ルカは少しだけ黙った。
その沈黙が長く感じた。
私はルカの横顔を見る。彼は迷っていた。
そして、ゆっくり口を開いた。
「……今の俺には無理だ」
私はその言葉に息を止めた。
ルカが、解呪できないと言った。
エリアスの顔が青くなる。
「そんな……」
ルカは続ける。
「お前の元の呪いの影響で古書の呪いが深い部分まで入っている」
その声は落ち着いていた。
「時間がかかる」
テオドールさんが静かに聞く。
「調べる時間が必要ということですか」
ルカは頷いた。
「知識が足りない」
その言葉は重かった。
ルカは今まで、ほとんどの呪いを解いてきた。
でも今回は違う。
「調べる。何か方法を探す」
エリアスはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……お願いします」
古書店の中は静かだった。
本棚の影がゆっくり揺れている。
私はルカの横顔を見た。
彼の目は、いつもより少しだけ遠くを見ていた。
きっと今、考えている。どうすればこの呪いを解けるのか。何を知らなければいけないのか。
そして私は、その答えが、まだ見えない場所にある気がしていた。
専門的に学べる場所。そこにある知識。
そのことを、まだ言葉にする人はいなかったけれど。
私には、なんとなく分かっていた。
ルカは、もっと強くなる。
きっとそのために、これから新しい道へ進むことになるのだと。




