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第三話〜壊れない理由を、まだ知らない〜

朝の空気は澄んでいて、昨日までの出来事がすべて夢だったのではないかと疑いたくなるほど、村はいつも通りの顔をしていた。

それでも、私の中だけが、確実に変わってしまっている。

ルカに触れた指先の感触は、もうはっきりとは思い出せないのに、触れても壊れなかったという事実だけが、胸の奥に沈殿したまま、どうしても消えてくれなかった。

私は台所で、できるだけ音を立てないように気をつけながら、朝の支度をしていた。

木の椀を取る。

布で包んだまま鍋を持つ。

いつも通り、壊さないための距離と順序を守る。

それなのに、背中に突き刺さる視線は、昔から変わらない。

「それ、触るな」

母の声は低く、感情のない響きだった。

「はい」

短く返事をして、私は手を引く。

父は何も言わない。

でも、私の方を見ようともしない。

それが、この家での私の位置だった。

忌み手の少女。

血のつながった家族にとってさえ、触れてはいけない存在。

怒鳴られるわけでも、殴られるわけでもない。

ただ、最初から「近づかないもの」として扱われる。

それが一番、心を冷やした。

食卓についたとき、私の席だけが、ほんの少し離れているのも、今さら気にすることじゃない。

湯気の立つ椀を前に、私は黙って匙を取った。

それでも、生きていける。

そうやって、ずっと自分に言い聞かせてきた。




家を出たあと、胸の奥に残った冷たさを振り払うように、私は村外れへ向かった。

ルカが来てから、この道を歩く回数が増えている。

彼に会えるかもしれない、という期待を、私はまだ自分に許していないつもりだったけれど、足は正直だった。

石垣のそばで立ち止まり、遠くを歩く後ろ姿を見つけたとき、心臓が小さく跳ねる。

 ――ルカ。

呼びかける勇気はなくて、私はただ、少し離れた場所から彼を見ていた。

風に揺れる外套。

歩くたびに揺れる剣の柄。

どこか現実から切り離された存在のようで、私とは違う世界に属している人だと、改めて思い知らされる。

それなのに。

どうして、あの人の前では、呪いが眠ったのだろう。

答えの出ない問いが、頭の中で何度も繰り返される。




私は、これまで「なぜ」を考えないようにしてきた。

触れたら壊れる。

近づけば傷つける。

理由よりも結果の方が大切で、理由を探ることは、無駄で、危険で、期待を生むだけだと思っていたから。

でも今は、違う。

なぜ、ルカだけは平気なのか。

なぜ、私の呪いは、彼の前でだけ静かになるのか。

もしかしたら、彼が特別なのではなく、私の方が――。

そこまで考えて、私は思考を止めた。

期待するのが、怖かった。

もし理由が分かってしまって、

もしそれが「偶然」や「一時的なもの」だったら。

昨日までの距離に、戻れなくなる。




「セフィ」

不意に名前を呼ばれて、肩が跳ねた。

振り返ると、ルカが少し困ったような表情で立っていた。

「そんなところで、どうしたの?」

「いえ、あの……」

言葉が続かない。

ルカは、それ以上踏み込まず、私の隣に並ぶ。

距離は、ほんの腕一本分。

触れない。

でも、近い。

「君、今日は元気ないな」

「そう、ですか」

「うん」

短い返事のあと、彼は空を見上げた。

「無理に話さなくていいけどさ」

そう前置きしてから、静かに続ける。

「君が考えてること、だいたい分かるよ」

胸が、きゅっと縮む。

「理由、知りたいんだろ」

私は答えなかった。

答えられなかった。

ルカはそれ以上何も言わず、ただ歩調を合わせてくれる。

その優しさが、痛かった。




夕方、家に戻ると、母は私の方を見なかった。

「遅い」

それだけ言って、背を向ける。

私は小さく「ごめんなさい」と言って、部屋に戻った。

ベッドに腰を下ろし、両手を見つめる。

この手は、壊す。

この手は、拒まれる。

それなのに。

あの人の前では、触れてもよかった。

胸の奥で、何かが静かに芽生える。

それは希望に似ていて、でも希望と呼ぶには、あまりにも怖い感情だった。

私はまだ、答えを知らない。

それでも、確かなことが一つだけある。

私はもう、「忌み手の少女」として、何も感じずに生きることはできない。

理由を知りたいと思ってしまった時点で、私はもう、前に進んでしまっているのだから。




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