第二部・第十四話〜消えない呪い〜
ヴァルディアの朝は、昨日と同じようで、少しだけ違って見えた。
昨日はエリアスの呪いを解いた帰り道、私もルカも、どこかほっとしていた。夜だけ身体が透けるなんて奇妙な呪いだったけれど、ルカが触れて核を断ったとき、確かに呪いは消えていた。
だから私は、もう大丈夫だと思っていた。
けれど朝、依頼局に入った瞬間、その空気の違いに気づいた。
受付の女性が、少しだけ慌てた様子で立ち上がったからだ。
「ルカさん、セフィさん」
「どうしました?」
私が尋ねると、彼女はすぐ奥の部屋を見た。
「副局長がお待ちです」
ルカと顔を見合わせる。
ただ事ではない空気だった。
応接室の扉を開けると、テオドールさんがすでに立っていた。
いつもの落ち着いた表情ではあるけれど、どこか真剣な色が混じっている。
「来てくれて助かります」
ルカが言う。
「何かあったか」
テオドールさんは短く答えた。
「エリアスです」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥が小さくざわついた。
「先ほど、依頼局に連絡がありました」
テオドールさんは机の上の紙を軽く叩く。
「また身体が透けたそうです」
私は思わず声を上げた。
「えっ」
ルカの眉がわずかに動く。
「再発か」
「ええ」
テオドールさんは頷いた。
「昨夜は一度ではなく、二度起きたそうです」
部屋の空気が静かに重くなる。
ルカが言う。
「すぐに行こう」
それだけだった。
迷い色は感じられなかった。
北通りの古書店は、昨日と同じように静かだった。
扉を開けると、紙の匂いが迎えてくれる。
けれど店の空気は、昨日より少し沈んでいるように感じた。
奥からエリアスが出てきた。
顔色が少し悪い。
「……すみません」
彼は申し訳なさそうに頭を下げた。
「昨日、解呪していただいたのに」
ルカが聞く。
「いや、昨夜どうなった」
エリアスは深く息を吐いた。
「最初は大丈夫だったんです」
静かな声だった。
「身体は普通でした。だから……安心して眠ったんですが」
彼は苦笑した。
「夜中に目が覚めたら…」
エリアスは自分の腕を見る。
「また透けていました」
私は思わずルカを見る。
ルカの表情は変わらない。
「今どこかに不調は」
「昼間は普通です」
エリアスは頷いた。
「昨日と同じです」
ルカはしばらく黙って店の中を見回していた。
本棚。古書の山。机の上の本。昨日と同じ光景。
でも、私は昨日感じた違和感を思い出していた。
本棚の奥。あの重たい空気。
ルカが言う。
「昨夜、本を触ったか」
「いいえ」
エリアスは首を振る。
「昨日のあと、すぐに寝たので本には触れていません」
ルカは一歩近づいた。
「触るぞ」
エリアスが腕を差し出す。
ルカが手を置く。
しばらく、目を閉じる。
長い沈黙が流れた。
昨日より長い。
私はルカの背中に手を添えた。
呼吸を感じる。
けれど、解呪の時のような流れが動いていない。
ルカが目を開く。そして小さく言った。
「……おかしい」
エリアスが不安そうに聞く。
「何がですか」
ルカは少しだけ眉を寄せた。
「昨日の呪いは確かに解いた」
私はその言葉を聞いて、胸が少し締め付けられた。
「じゃあ……」
エリアスの声が震える。
「まだ呪いがあるんですか」
ルカは答えなかった。
代わりに、店の奥へ歩いた。
古書の山の前で立ち止まる。そして一冊の本を手に取った。
古びた装丁。昨日エリアスが読んだと言っていた本だった。
ルカが静かに言う。
「読んだというのはこの本か」
エリアスが頷く。
「はい」
ルカは本を閉じたまま手の上に乗せる。
しばらく沈黙が続く。
やがてルカが呟いた。
「……微かな呪いだ」
テオドールさんが聞く。
「呪いですか」
ルカは頷いた。
「昨日解いたのは、これだ」
私は思わず聞いた。
「どういうこと……?」
ルカは言葉を続けた。
「この本の呪いは別にある」
部屋の空気が凍った。
エリアスの顔が青くなる。
「別……?」
ルカはエリアスを見る。
その目はいつもより少しだけ鋭かった。
「恐らくお前の中だ」
私はその言葉を聞いて、背筋がぞくりとした。
エリアスの中に、もう一つの呪いがある。
ルカが続ける。
「昨日は見えなかった」
静かな声だった。
「だが今は……」
そこで言葉が止まる。
ルカはゆっくり息を吐いた。
「はっきりしない」
それは珍しい言葉だった。
ルカが呪いを断言できないことは、今まで私は見たことがなかった。
エリアスが震える声で言う。
「治らないんですか」
ルカは答えない。
ただもう一度エリアスの腕に触れた。
そしてゆっくり言った。
「調べる」
その声は低かった。
「時間がいる」
私はルカの横顔を見る。
彼は今、初めての壁にぶつかっている。そんな気がした。
古書店の中は静かだった。本棚の影が床へ長く伸びている。
私はその影を見ながら、昨日感じた違和感の意味を、少しだけ理解し始めていた。
この呪いは、まだ終わっていない。
むしろ――
ここから始まるのかもしれない。




