第二部・第十三話〜夜に透ける男〜
ヴァルディアの朝は、相変わらず賑やかだった。
石畳の通りには朝早くから荷馬車が行き交い、露店を開く商人たちの声があちこちから聞こえてくる。パン屋の煙突からは今日も白い煙が上がり、焼きたての匂いがゆっくりと街の空気に溶けていく。
私はいつも通り窓を開けて、その朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
ヴァルディアに来てから、こうして朝の街を見る時間が好きになっている。人の暮らしが始まる瞬間というのは、どこか温かくて、安心する。
「セフィ」
後ろからルカの声がした。
振り返ると、彼は外套を羽織りながらこちらを見ている。
「依頼局に行くぞ」
「うん」
私は窓を閉め、ルカと一緒に部屋を出た。
依頼局に入ると、受付の女性がすぐに顔を上げた。
「おはようございます」
「おはようございます」
挨拶を返したところで、奥の階段からテオドールさんが降りてきた。
副局長らしく整えられた姿勢で、私たちの前で足を止めた。
「ちょうど良かった」
そう言って、彼は一枚の紙を差し出した。
「昨日お話しした依頼です」
ルカが紙を受け取る。
「古書店か」
「ええ」
テオドールさんは頷いた。
「依頼人はエリアス・フェルン。北通りの古書店で働いている青年です」
私は紙を覗き込んだ。
そこには短くこう書かれていた。
夜になると体が透ける
「透ける……?」
思わず声に出してしまう。
テオドールは静かに説明した。
「朝になると元に戻るそうです。物には触れられるし、身体の感覚も普通。ただ姿だけが薄くなるとのことです」
ルカが聞く。
「いつからだ」
「およそ一ヶ月前から」
「原因は」
「古書を読んだ夜からだそうです」
ルカは紙を折った。
「行くか」
テオドールさんが頷く。
「私も同行します」
北通りは静かな場所だった。
市場の喧騒とは違い、薬屋や地図屋、書店など落ち着いた店が並んでいる。歩く人の足音もどこかゆっくりで、この通りだけ時間の流れが少し穏やかに感じられた。
その通りの一角に、小さな古書店があった。
木の扉の上に控えめな文字で店の名前が書かれている。
テオドールさんが扉を開けると、古い木が軋む音とともに店の中の空気が流れてきた。
紙とインクの匂い。
そして、古い本の乾いた香り。
店の中は壁一面が本棚で埋め尽くされていた。棚に収まりきらない本は机の上や床にも積み上げられていて、まるで本の森の中に入ったようだった。
「いらっしゃいませ」
奥から声が聞こえた。
本棚の間から現れたのは、落ち着いた雰囲気の青年だった。
年は二十代前半くらいだろうか。柔らかな茶色の髪を後ろで軽く束ね、少し細身の体つきをしている。穏やかな目をしていて、話し方もどこか静かだった。
「依頼局の方ですね」
テオドールさんが一歩前に出る。
「副局長のテオドールです」
それからルカを示した。
「こちらが解呪師のルカ。そしてセフィです」
青年は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに頭を下げた。
「エリアス・フェルンです。来ていただいてありがとうございます」
ルカが言う。
「症状を聞かせてくれ」
エリアスは少し困ったように笑った。
「言葉にすると、少し変なんですが……」
そう言ってから、ゆっくり説明を始める。
「夜になると、身体が透けるんです」
私は思わず息を止めた。
エリアスは苦笑する。
「幽霊みたいに」
「物は触れるのか」
ルカが聞く。
「触れます。壁もすり抜けません」
「感覚は」
「普通です」
ルカは少し考えるように黙り、それから聞いた。
「いつからだ」
「一ヶ月ほど前です」
エリアスは机の上の古書を軽く撫でた。
「入荷した古書を確認していたんです。仕事で、本の内容を一通り読むんですが……その本を読み終えた夜から、身体が透けるようになりました」
私は思わずその本を見る。
古びた装丁の、かなり古い本だった。
ルカが言う。
「夜に見ないと分からないな」
エリアスは頷いた。
「夜まで待っていただけますか」
夜になり再び訪れると古書店は昼とは違う静けさに包まれていた。
窓から差し込む月の光が、本棚の影を長く床へ落としている。昼間よりも本の匂いが濃く感じられ、どこか少し冷たい空気が漂っていた。
エリアスが立ち上がる。
「そろそろ……」
その言葉が終わった頃だった。
私は息を呑んだ。
エリアスの身体が、少しずつ薄くなっている。
肩の輪郭がぼやけ、腕が透け、月の光がその向こうへ通り抜けていく。
「……本当だ」
エリアスは苦笑した。
「ね。変でしょう」
ルカは近づき、エリアスの腕に触れた。
しばらく目を閉じる。
静かな時間が流れる。
やがてルカが目を開いた。
「夜型の呪いだと思う」
エリアスが驚いた顔をする。
「夜型……?」
ルカは説明する。
「呪いには発動条件があるものがある。感情で出るもの、場所で出るもの、時間で出るもの」
そしてエリアスの胸のあたりを軽く示す。
「これは時間型。夜になると身体の輪郭が薄くなる」
「そんな呪いがあるんですか」
「珍しくはない」
ルカは続けた。
「古書に残っていた呪いの欠片を拾ったんだと思う」
私はその説明を聞きながら、なるほどと思った。
長い年月の中で、本には人の思念が残ることがある。
ルカが言う。
「軽い部類の呪いだ」
エリアスの表情がわずかに緩む。
「解けますか」
「問題ない」
ルカはそう言ってエリアスの胸に手を置いた。
私はその隣に立ち、ルカの背中に手を添える。
解呪が始まると、ルカの呼吸が少し深くなる。
夜の呪いは、冷たい霧のように身体を覆っていた。
その中心を探す。
ほどく。
断つ。
空気がわずかに揺れた。
ルカが手を離す。
「終わった」
エリアスの身体は、もう透けていなかった。
彼は自分の腕を見つめ、驚いたように呟く。
「……消えてる」
そして深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
ルカは静かに頷いた。
「数日は様子を見てくれ」
私はそのやり取りを見ながら、ふと店の奥へ目を向けた。
本棚の影。
積まれた古書。
その空気の奥に、ほんのわずかな違和感がある気がした。
でも、それが何なのかは分からない。
ただの気のせいかもしれない。
私はそう思うことにした。
まだ、この時は。




