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第二部・第十二話〜ヴァルディアでの日々〜


ヴァルディアの朝は、いつだって少し忙しない。

夜が明けきる前から、石畳の上には荷馬車の車輪の音が響き始めて、パン屋の窓からは焼きたての匂いが流れ出し、遠くの市場の方からは商人たちの張りのある声が風に乗って運ばれてくる。誰かが店の扉を開け、誰かが水を打ち、誰かが一日の仕事を始める準備をしていて、街全体が少しずつ目を覚ましていく様子が、窓の向こうにひろがっていた。

私は窓を開けて、その朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

まだ少しひんやりしているのに、どこか甘い匂いが混ざっている。パンの匂いなのか、露店に並ぶ果物の匂いなのか、もう判別がつかないくらい、この街には色んなものが溶け合っていた。

振り返ると、ルカが窓辺に立って通りを見下ろしている。

朝の光の中にある彼の横顔は、以前より少しだけ穏やかに見えた。

ヴァルディアへ来たばかりの頃は、もっと張りつめていた気がする。依頼局に囲われることへの警戒や、この街で生きていくことへの探るような視線が、彼の中には確かにあった。けれど今は、まだ完全に力を抜いているわけではないにしても、少なくともこの街を“敵ではない場所”として見られるようになったのだと思う。

私は卓の上の皿を重ねながら、彼に声をかけた。

「今日は何件くらいかな」

ルカは通りの向こうから目を離さず、少しだけ考えてから答えた。

「依頼局には三件来てるらしい」

「三件」

思わず、私は小さく繰り返す。

ルカはそこでようやく振り返り、私を見ると、いつもの落ち着いた声で続けた。

「全部はやらない。重い呪いが混じってるなら一件で終わりだし、軽いやつなら二件までだな」

その言葉に、私はほっと息を吐いた。

一日にどれだけ解呪をするか、それはもう、私たちの中ではある程度決まったルールになっている。

基本は一日一件。

軽いものなら、私がそばでルカを癒しながら支えることで、二件まで。

それ以上は、しない。

ルカは解呪をするとき、自分の命を削っているのかどうかを、まだきちんとは分かっていない。けれど少なくとも、彼の体には確実に疲労が残るし、内側を削られたような重い消耗が来る。だから私は、もう無茶はさせないと決めている。

「今日は顔色いいね」

私がそう言うと、ルカは少しだけ眉を上げた。

「見てたのか」

「見るよ、毎朝」

それが当然のことみたいに返すと、彼は一瞬だけ黙ってから、小さく息を吐いた。

「じゃあ判断はセフィに任せる」

その言葉が嬉しかった。

私は、ただ彼の隣にいるだけじゃなくて、ちゃんと役に立てているのだと思えるから。

「うん。ちゃんと見てるね」

そう言って外套を羽織ると、ルカは短く頷いた。

「行くか」




依頼局の建物に入ると、朝の空気とはまた違う、落ち着いた静けさが迎えてくれた。

受付の奥では、すでに何人もの局員が書類を手に行き交っていて、朝早い時間だというのに、ここだけは街より先に目を覚ましているみたいだった。

受付の女性が私たちに気づいて、すぐに顔を上げる。

「おはようございます、ルカさん、セフィさん」

「おはようございます」

私が挨拶を返すと、彼女は柔らかく笑った。

ヴァルディアへ来たばかりの頃は、私たちを見る目にもまだどこか探るようなものがあった。けれど今は違う。街の人たちも、依頼局の人たちも、少しずつ私たちをこの場所の一部として見てくれている気がする。

「副局長はもうお待ちです」

その言葉どおり、奥の階段からテオドールさんが降りてきた。

今日もきちんと整えられた服装で、背筋をまっすぐに伸ばしている。副局長らしい隙のなさを持ちながらも、私たちに向ける表情だけはほんの少し柔らかい。

「おはようございます」

「おはようございます、テオさん」

私がそう呼ぶと、彼はわずかに目元を和らげた。

「本日の依頼は三件です。ただ、無理に全部見る必要はありません」

そう言いながら差し出された紙には、簡潔に依頼内容が記されていた。

「一件目は仕立て屋の娘さん。針を持つと指が痺れるそうです」

ルカが紙に目を落とす。

「重くはなさそうだな」

「ええ。話を聞く限りおそらく強い呪いではありません」

テオドールさんはそう言って、それから少しだけ真剣な目でルカを見る。

「本日も同行します」

ルカは短く頷いた。

テオドールさんは必ず同行する。

副局長として依頼の確認と立会いをする必要があるから、というのは表向きの理由だ。けれど私はもう知っている。彼が本当にそれを望んでいるのは、解呪というものを少しでも多く見て、知識として自分の中に積み上げたいからだ。

彼は解呪がどれほど特別なものかを知っている。だからこそ、その場に立ち会うことを決して軽く考えない。

その真剣さが、私は好きだった。




南通りの仕立て屋は、朝の光を布越しにやわらかく受け止めるような店だった。

窓辺には色とりどりの布地が吊られ、奥には仕立て途中のドレスやシャツが並んでいる。けれど店の空気は少しだけ沈んでいた。

「娘です」

店主が、十六歳くらいの女の子の肩をそっと押す。

娘は緊張したように私たちを見て、恐る恐る頭を下げた。

「最近、針を持つと指先が痺れるんです。最初は少しだけだったんですけど、今は……」

言葉の続きを飲み込むように、彼女は手元の針山を見た。

私はなるべく優しく微笑んだ。

「見せてもらってもいいですか?」

娘が頷き、細い針を一本手に取る。その瞬間、目に見えて指先が強張った。

ルカはしばらくその様子を見つめていたが、やがて店の中を一度ゆっくりと見渡した。

「少し前に、人が辞めたか?」

その問いに、店主がはっとした顔になる。

「……弟子が、一人」

「揉めた?」

「ええ」

店主は苦い顔で頷いた。

「自分の方が腕があるのに、どうして娘を後継にするんだと……」

ルカは作業台の上の針山に視線を移した。

「その時、針が散ったりしてないか」

「作業台を叩いて……針が落ちました」

それで十分だったらしい。

ルカは静かに息を吐いた。

「呪いというより、感情の残りだろうな」

娘が目を瞬く。

「感情……?」

「強い嫉妬や悔しさが、針に残ってる。もしかしたらその人の能力でわざと残したのかもしれない。だからお前が持つと反応する」

私はその言葉を聞きながら、なるほどと思う。

人の感情は、時々ものに残る。残すこともできる。

呪いとは少し違うけれど、確かに人を傷つける力になる。

ルカが娘の手元に近づく。

私はそのすぐ隣に立った。

彼が解呪のために集中する時、私は必ずそばにいる。

ルカの背中に手を添え、呼吸の変化を感じ取りながら、消耗が深くなりすぎないように静かに癒しを重ねていく。

針に染みついた嫉妬は、小さく、でも鋭かった。

ルカの指先が針に触れた瞬間、私は彼の中に生じるわずかな緊張の揺れを感じたので、そのまま背中の中心へと手のひらを滑らせた。

大丈夫。

そう伝えるように。

しばらくして、ルカが静かに手を離す。

「終わった」

娘はおそるおそるもう一度針を持った。

今度は、指先が痺れない。

「……あれ?」

母親が口元を押さえ、店主が深く頭を下げた。

店を出たあと、私はすぐにルカの手を取る。

「どう?」

「解呪じゃなかったからな。軽かった」

そう言う声には、まだ余裕がある。

私はそのまま歩きながら彼の手を両手でほんの少しだけ癒すように包み込んだ。

テオドールさんが、少し先を歩きながら振り返る。

「セフィさんがそばにいると、やはり違いますか」

ルカは短く答える。

「全く違う。まるで別物だ」

それだけなのに、胸の奥が少しだけ熱くなった。




二件目は宿屋の主人だった。

年の頃は四十代くらい。いかにも人の良さそうな顔をしているのに、今日は妙に落ち着きがない。

「風邪ではないんです」

そう言いながら、彼は何度か咳払いをした。

「でも、ここ数日ひどくて。特に家の中で話していると……」

ルカは少しだけ眉を寄せる。

「昔からか?」

主人はぎくりとした。

「……少しは」

「嘘をつくと出るんだろ」

気まずそうに沈黙した。

奥から、宿屋の女将さんが顔を出した。

主人はしばらく黙り込んでいたが、やがて深く項垂れた。

「借金を、隠してました」

そこでまた激しく咳き込む。

なるほど、と私は思う。

これはきっと生まれ持った、小さな呪いなのだ。

小さな嘘なら少しの咳で済む。けれど今回は、家族に黙って借金をしていた。その罪悪感が大きすぎて、呪いがひどく出ている。

ルカが静かに言う。

「呪いが強くなったんじゃない。お前の罪悪感が強くなっただけだ」

主人は肩を落とした。

「……すみません」

「俺にじゃないだろ」

女将さんが、ゆっくりと息を吐く。

「あとでちゃんと話してもらうよ」

ルカはそこで初めて主人の肩に手を置いた。

「少し均す。だが、根本はお前の方だ」

調整は解呪ほど大きくない場合が多い。けれど感情に直接触れるから、丁寧さが必要だ。

私はまたルカの背に手を添える。

罪悪感の塊は、重く澱んでいた。でもルカはそれを断つのではなく、少しだけ緩め、呼吸ができるくらいに整えていく。

「終わった」

主人は深く息を吸ってから、何度か咳払いをした。

咳は止まっている。

けれど表情は晴れない。

当然だ。

借金が消えたわけではないし、隠していた事実もなくならない。

でもきっと、ここからちゃんと向き合える。

宿を出ると、ルカの足取りが少しだけ重くなっていた。

私はすぐにわかった。

「今日はここまでだね」

ルカは一瞬だけ私を見て、それから小さく頷く。

「……そうだな」

テオドールさんも紙を畳む。

「三件目は明日以降に回します」

その判断に迷いがないのが、私は嬉しかった。

ルカを“使う”のではなく、“守る”こともちゃんと考えてくれているのだと分かるから。


依頼局へ戻る途中、私は広場のベンチにルカを座らせた。

「少し休んで」

彼は逆らわずに腰を下ろす。

私は隣に座り、その手を包むように握った。

さっきより少し冷えている。

それでもまだ、深く削られている感じではなさそうだ。

私はそっと息を整えながら、彼の中に残る疲れのざらつきを撫でるように癒していく。

「どう?」

「重いけど、平気だ」

「平気でも休むの」

そう言うと、ルカは目を閉じた。

「……分かった」

その素直さが、少しだけ可笑しくて、でも愛おしい。

テオドールさんは少し離れた場所で立ったまま、私たちを見守っていた。

「最近、依頼が増えています」

彼がぽつりと言う。

私は顔を上げる。

「街中で噂になっていますよ。ヴァルディアに解呪師がいる、と」

ルカは目を閉じたまま、短く返した。

「面倒だな」

「そうでしょうか」

テオドールさんは小さく笑う。

「私には、誇らしいことのように思えます」

その言葉は静かだったけれど、嘘ではないと分かった。




夕方、依頼局へ戻ると、受付の女性が少し慌てた様子で立ち上がった。

「副局長、もう一件……」

「明日に回します」

テオドールさんがすぐに言う。

けれど女性は困ったように紙を差し出した。

「少し変わった内容で……」

テオドールさんはそれを受け取り、目を通したあと、ほんのわずかに眉を動かした。

「古書店から?」

ルカが顔を上げる。

「症状は」

「夜になると、身体が透けるそうです」

その言葉に、私は思わず息を呑んだ。

「透ける……?」

テオドールさんがゆっくりと頷く。

「朝には戻るらしいのですが、本人はかなり気にしているようです」

ルカは紙を見つめたまま、少しだけ考えているようだった。

私はその横顔を見ながら、胸の奥に小さなざわめきが生まれるのを感じていた。

これまでの依頼とは、何かが違う。

理由は分からない。

ただ、その違和感だけが静かに残る。

やがてルカが口を開く。

「明日、行く」

短い言葉だった。

けれど、その声にはもう次の依頼へ向かう解呪師の響きがあった。

紙の下には、依頼人の名が整った文字で記されている。

エリアス・フェルン

私はその名前をじっと見つめた。

明日、その人に会う。

きっとそこから、何かが変わる。

そう思うのに、それが何なのかはまだ分からなかった。



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