第二部・第十話〜甘さの奥にあるもの〜
翌朝、目を覚ました瞬間に胸の奥がふわりと浮き上がるような感覚があった。
昨日見た、あの青い湖と、湖を囲むように揺れていた赤い果実の景色が、まだまぶたの裏に残っていたからだ。
「……また行きたいな」
まだ布団の温もりの中で小さく呟くと、隣で横になっていたルカがゆっくりと目を開けた。
「湖か?」
声は少しだけ低く、寝起きの柔らかさを含んでいる。
「うん。果樹園も。昨日よりもっとちゃんと見たいな」
そう言うと、ルカは一瞬だけ私を見つめ、それから小さく息を吐くように笑った。
「朝食のあと、行こう」
それだけの言葉なのに、胸が軽く弾んだ。
私は、こんなふうに次の楽しみを素直に口にできる自分が、少しだけ不思議で、そして誇らしかった。
宿屋を出ると、朝のアリュス村はまだ柔らかな光に包まれていて、果実の甘い匂いが風に乗ってゆるやかに流れていた。
湖へ向かう道を歩きながら、私は何度も振り返ってしまう。
村のあちこちに植えられている枝いっぱいに実ったアリュス果は、昨日と同じはずなのに、朝露をまとっているだけで、まるで宝石のようにきらめいて見える。
「……きれい」
思わずそう漏らすと、隣で歩くルカが、ほんの少しだけ目を細めた。
「セフィは、きれいなものを見るとすぐ顔に出るな」
「え?」
「目が、子どもみたいになる」
そう言われて、私は慌てて前を向く。
「子どもって……」
「悪い意味じゃない」
その声と表情がやけに優しくて、余計に顔が熱くなる。
ルカは私以外の人と話す時は口数が少なくてぶっきらぼうになるけれど、たまにはそういう表情も見せればいいのにな、なんてふと思った。
湖は、とても静かだった。
風が止むと水面は鏡のように凪ぎ、空の青と果実の赤をそのまま映し込んでいる。
私はしゃがみ込み、水面を覗き込んだ。
そこには、並んで立つ私とルカの姿が映っている。
旅人としてではなく、逃げる者としてでもなく、ただ並んでいる二人の姿。
「湖なのに、空みたいだね」
私がそう言うと、ルカも隣にしゃがみ込んだ。
「昨日もそれ言ってたな」
ルカが微笑む。
その距離が近くて、胸の奥がほんの少しだけざわめく。
私は湖の水に指先を浸した。
冷たいのに、柔らかくてどこか優しい。
そう思えることが、こんなにも静かであたたかい。
「観光の人?」
私たちがしばらく景色を眺めていると、背後から明るく弾む声が聞こえた。
振り向くと、同じくらいの年頃の女の子が立っている。
長い髪をひとつにまとめ、作業着の袖をまくった姿は、果樹園の一部のように自然だった。
「私はリリス。ここはうちの果樹園なんだ」
誇らしげにそう言うその表情は、果実と同じくらい明るい。
「私、この果樹園、全部好きなの」
枝に触れる手が、まるで大事なものを撫でるみたいに優しい。
「小さい頃から手伝ってるんだ。いずれは絶対私が継ぎたいと思ってるの」
私は思わず見つめてしまう。
守りたい場所があるって、きっと強いことだ。
「味見する?」
リリスがロゼリアをもぎ取る。
差し出された実を口に入れた瞬間、濃い甘さが広がる。
「やっぱり、おいしい……」
でも次に渡された籠から出されたメルティアは、昨日より少し酸味が強い気がした。
「……あれ?」
私の反応に、リリスが少しだけ息を呑む。
「わかる?」
「うん。昨日食べたものより、ちょっと酸っぱい」
リリスは、枝にそっと触れた。
「それ、さっき私が触ったの」
「え?」
「私ね、能力持ちなの」
リリスの言葉が、湖の静かな空気に溶ける。
「……能力持ち、なんだね」
私はそう繰り返しながら、そっとルカを見る。
さらりと告げられた言葉は、どこか覚悟を含んでいた。
「感情で、味が変わるの。楽しいと、とびきり甘くなる。喜びも甘い。でも、悲しいと酸味。怒ると……苦くなる」
その最後の言葉だけ、少しだけ小さくなる。
「品種が増えたのも、たぶん私のせい。以前はアリュス果は一種類しかなかったの。ロゼリアは、すごく楽しかった年に生まれた。メルティアは……ちょっと複雑な時期」
私は枝を見上げる。
甘い香りの中に、目に見えない感情が混ざっている。
「怒りの苦味は売れない。悲しみの酸味は不安定。収穫祭が近いのに、味が揺れると困るの」
拳がぎゅっと握られる。
「私、継ぎたいのに。怒ったり、悲しくなったりする自分は、だめなんじゃないかって」
その言葉に、胸がきゅっと締め付けられる。
私も、自分の力をそう思っていた。
触れたら壊す。
だから優しくなれない。
だから、誰かの隣に立つ資格なんてないと。
「怒りって、悪いものかな」
気づけば、私はそう問いかけていた。
リリスが顔を上げる。
「守りたいものがあるから、怒るんじゃない?」
私だって、ルカのことになると、怖いくらいに強くなる。
「悲しみも、大事な何かを想ってる証拠だよ」
リリスの目が揺れる。
「でも、苦い実になる」
「苦い実にも、意味はある」
ルカが静かに口を開く。
「害虫を遠ざけるかもしれない。加工向きかもしれない。全ての味に役割はある」
その声は落ち着いているのに、確かだった。
ルカはしばらく枝先の実を見つめ、それからゆっくりと視線を上げた。
「俺はルカ、解呪師だ」
その言葉は静かで、誇張も飾りもなかった。
けれど、自分の力を、役目をきちんと引き受けた声だった。
リリスの目が丸くなる。
「解呪師……?」
「ヴァルディアで、解呪と調整の仕事をしている。まだ名乗り始めたばかりだけどな」
わずかに肩をすくめる。
私はその横顔を見て、少しだけ胸が熱くなる。
「私も一緒に旅をしていて、彼のそばで手伝っています。セフィです」
「解呪師……、初めて会った…」
空気が少し変わる。
ただの観光客ではなく、力を持つ者として。
でも、威圧ではなく、寄り添う形で。
ルカが続ける。
「能力は呪いじゃない。けど、困っているなら話は聞ける」
リリスの喉が小さく鳴る。
「……本当に?」
「能力は俺には消すことはできないが、場合によっては整えることはできるかもしれない」
私は、リリスの手をそっと握る。
「怒りも、悲しみも、なくさなくていいんだよ」
この瞬間、ルカは初めて自分から“解呪師として名乗った”。
でもそれは、力を誇るためじゃない。
誰かの前に立つため。リリスの力になるため。
私はそんなルカがとても誇らしかった。
リリスはしばらく黙り込んだあと、小さく言う。
「……弱めること、できる?」
ルカは枝を見つめる。
「能力だ。消すのは無理だが調整なら可能かもしれない」
「消したくはないの」
即座に返る声。
「でも、暴れないようにしたい」
私はルカを見る。
彼は一瞬だけ考え、それから静かに頷いた。
「感情の核を少し均すくらいなら、できるかもしれない」
リリスの瞳が、大きく開かれる。
「本当に?」
「保証はない。だが、振れ幅を穏やかにすることは解呪の要領と変わらないと思う」
湖のほとりで、調整は始まった。
断つのではなく、削るのでもなく、ただ整える。
怒りや悲しみの感情を伝染させる回路のようなものを少し調整して少なくする。
リリスの中で大きく揺れていた感情の波が、ゆっくりと穏やかになっていく。
湖面がかすかに揺れ、やがて静まる。
「……触って確かめてみて」
怒りを思い出す。
苦味はある。でも刺さらない。
悲しみを思う。
酸味はある。でも柔らかい。
「優しい味……」
リリスの頬を涙が伝う。
甘さは、ちゃんと残っている。
「怒っても、いいんだよね」
「うん」
私は笑う。
全部あっていい。
全部あって、私たちなんだ。
帰り道、ルカは少しだけ肩を回した。
「大丈夫?」
「重くはない。能力は呪いより軽い」
それでも私は、そっと手を握る。
「セフィがいるから、均すのも楽だ」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
湖の青と果実の赤が夕陽に染まり、世界がやわらかく溶けていく。
私は思う。
甘さも、酸っぱさも、苦さも、全部抱えて、生きていく。
その隣に、ルカがいる。
それだけで、世界はこんなにも美しい。




