第二部・第六話〜選ばれる力〜
力務局の応接室は、朝の光が大きな窓から差し込んでいた。
テオドールは椅子に腰掛ける前に、静かに一礼した。
「まずは昨日の件について、正式に礼を申し上げます」
副局長としての声。
けれどその奥には、個人的な感謝が混じっているように感じた。
「今朝、森の巡回を行いました。霧は管理小屋周辺に留まり、現時点で通行に支障は出ていません。ダリウスも落ち着いていました」
一瞬だけ視線を下げる。
「ヴァルディアとしても、感謝いたします」
ルカは軽く頷いた。
「依頼を受けただけだ」
淡々とした返答。
だがテオドールはその態度に気分を害することはなかった。
むしろ、その距離感が心地よいようだった。
彼は静かに息を整え、続ける。
「本日は、別の話をさせていただきたく存じます」
空気が少し変わる。
私は無意識にルカの横顔を見た。
「現在、解呪師は国に八名しかいないのはご存知でしょうか」
静かな、しかし重みのある声。
ルカは黙って首を振る。
「そのうち六名は王都で国の任に就いております。軍務や王族関係の案件を優先するため、地方に出ることはほとんどありません」
ルカは目を細める。
「残る二名は高齢です。解呪自体は可能ですが、回復に長い時間を要するのが現状です」
部屋が静まる。
「つまり――」
テオドールはまっすぐルカを見る。
「ヴァルディアのような大都市で、常駐できる解呪師がいないのです」
私は思わず息を呑んだ。
ルカの能力はそれほど希少なのだ。
テオドールは言葉を選びながら続ける。
「ルカさん。貴方は、私が知る限り最も若く」
ほんのわずかに間を置く。
「…そして昨日の件で、極めて期待できる実力をお持ちだと感じました」
その言葉に、私は胸が熱くなる。
ルカは表情を変えない。
テオドールは、ほんの少しだけ声を低くした。
「私は正直に申し上げます」
一瞬、視線が揺れる。
「副局長としてではなく、一人の人間としても……貴方を、手放したくない」
その言葉は静かだった。
けれど重い。
私は思わずルカを見る。
誇らしさと、不安が同時に胸をかすめる。
ルカはしばらく沈黙し、やがて言った。
「利用価値がある、ということか」
空気がわずかに張り詰める。
だがテオドールは視線を逸らさない。
「そう思われても構いません」
きっぱりと。
「ですが、私は貴方を道具として扱うつもりはありません」
その言葉に、私はテオドールの目を見た。
そこには計算だけではないものがあるように感じる。
「ヴァルディア力務局専属の解呪師として、活動していただけないかと考えています」
「報酬は可能な限り整えます。住居の提供も検討いたします。情報網も共有します」
副局長としての顔に戻る。
「ただ…、もちろん最終決定は局長です」
「局長はとても慎重な方です」
そこで言葉を止めた。
ルカが静かに問う。
「その局長を、俺で説得したいわけだな」
テオドールは小さく息を吐く。
「はい」
正直だった。
「局長には、個人的な問題があります」
私は胸の奥がわずかにざわつくのを感じた。
「その解決を…、解呪をお願いしたい」
部屋の空気が、わずかに重くなる。
テオドールは続ける。
「成功すれば、局長は貴方の実力を認めるでしょう。そして私は、正式に専属の件を提案できます」
ルカは椅子に深く背を預ける。
目は冷静だ。
「条件は?」
短い問い。
テオドールはわずかに微笑む。
「縛りは設けません。依頼を受けるかどうかは貴方が決める。ただし、力務局を拠点としていただきたい」
私はルカの手をそっと握る。
これは転機だ。
世界が広がる。
同時に、責任も重くなる。
ルカはゆっくりと息を吐いた。
「話を聞こう。ただし、決めるのは俺たちだ」
それだけ。
だが十分だった。
テオドールは静かに頷く。
「ありがとうございます」
そして、ほんのわずかに声を柔らげる。
「――局長の孫のことです」
空気が変わった。私は無意識にルカの手を握った。
「三歳になるお孫さんがいます」
空気が重くなる。
「その子は、興奮すると高熱を出します」
ルカの視線が動く。
「怒りでも、喜びでも。感情が大きく揺れると、体温が急上昇する。四十度を超えることもあります」
私は息を呑んだ。
「数時間で下がりますが、その間は苦しみます。痙攣を起こしたこともある」
静かな部屋に、その言葉が落ちる。
「医師は原因不明としています。しかし両親や局長は理解している。呪いだと」
ルカが低く問う。
「いつからだ」
「一歳になる前からでしょうか。初めて大きく笑った夜に、熱を出した」
笑っただけで。
私は胸が締めつけられる。
「そういったことが度重なり、両親は刺激を避けています。楽しい場所へも連れていけない。新しい玩具も与えられない」
テオドールの声がわずかに揺れる。
「局長は……それを見ていることしかできない」
重い沈黙。
ルカがゆっくりと息を吐く。
「解呪は可能だ」
テオドールの目が揺れる。
「ただし、成功の保証はない。これまで解呪してきた中で一番幼い子供は7歳だった」
重い言葉。
「感情の波がどう変わるかは分からない。だが、子どもは感情を抑えて生きるものじゃない」
その一言に、部屋の空気が変わる。
テオドールは深く頷いた。
「局長も同じことを言っていました。“笑わせてやりたい”と」
やがて彼は立ち上がる。
「局長に直接お会いください」
テオドールは私たちを二階の局長室へと案内した。
重厚な扉の向こうには、静かな威圧があった。
「入れ」
低い声。
机の奥に座る男は五十代後半。鋭い目をしている。
「副局長、報告か」
「はい。ダリウスの件は解決しました」
「お前か。まだ若いな」
局長の鋭い視線がルカに向く。
テオドールは迷いなく切り出した。
「局長、ご令孫の呪いについて、解呪を提案いたします」
空気が凍る。
「軽々しく口にするな」
低い声。
「軽々しくはありません」
テオドールは一歩も引かない。
「昨日、彼は森の呪いを調整しました。消すだけでなく、整えることも可能です」
局長の目が細まる。
「孫の呪いは単純ではない」
ルカが答える。
「感情の昂りが引き金。四十度を超える高熱」
局長の瞳が揺れる。
「孫は……笑うだけで苦しむ」
祖父の声だった。
「成功する保証はあるのか」
「ない」
ルカは即答する。
「だが、可能性は十分ある」
沈黙。
長い沈黙。
やがて局長は立ち上がった。
「明日、公邸へ来い」
テオドールの肩がわずかに下がる。
「直接、孫を見よ。その上で判断する」
それは許可ではない。
試験だ。
「よろしいか」
ルカは短く答える。
「構わない」
局長は背を向ける。
「副局長、責任はお前が負え」
「承知しております」
廊下へ出ると、私は大きく息を吐いた。
張り詰めていた空気が、ようやくほどける。
テオドールは静かに言う。
「……ありがとうございます」
副局長としてではなく、一人の人間としての声だった。
明日、公邸へ。
笑えない子どもに、会う。




