第二話〜触れてはいけない距離を、もう一度〜
朝、目を覚ました瞬間、胸の奥に残っている感覚が、ただの夢の名残ではないことを、私はとてもはっきりと理解してしまった。
昨夜、丘の上で触れた指先の温度は、眠っているあいだに都合よく消えてくれるものではなく、むしろ朝の静けさの中でいっそう鮮明になり、私の内側に小さな熱として残り続けていた。
触れても、壊れなかった。
その事実だけで、忌み手の少女として生きてきた私の世界は、もう昨日までと同じ形ではいられなくなっていた。
私は布団の中で、そっと自分の手を開き、指を一本ずつ確かめるように動かしながら、昨日と何ひとつ変わっていないはずのその手を、それでも疑うような気持ちで見つめていた。
傷もない。
痺れもない。
呪いが暴れた気配も、どこにもない。
それなのに、胸の奥だけが落ち着かず、まるで何か大切なものを一度知ってしまったせいで、元の場所に戻れなくなったような感覚が、静かに広がっていく。
朝の手伝いをしているあいだも、考えないようにすればするほど、思考は勝手に同じ場所へ戻ってしまった。
水を汲む。
パンを運ぶ。
皿を洗う。
その一つ一つの動作の中で、私は無意識に、自分の手が触れているものの状態を確かめてしまう。
木の器の縁に増えた細かな傷を見て、ああ、これももう長くは使えないな、と心の中で静かに息をつく――そんなふうに、物が壊れていくことを前提に生きるのは、私にとって当たり前の日常だった。
でも、昨夜の出来事は、その当たり前を根本から揺らしてしまった。
どうして、ルカは平気だったのだろう。
なぜ、触れても何も起きなかったのだろう。
もしあれが、ただの偶然だったのなら、次はきっと同じ結果にならない。
もし私の体調がたまたま良かっただけなら、期待すること自体が間違いだ。
そう分かっているはずなのに、心のどこかで、あの夜が特別なものだったと信じてしまっている自分がいて、その事実が少し怖かった。
これまで私は、呪いについて深く考えないことで、自分を守ってきた。
理由を探さず、意味を求めず、ただ距離を取って生きることが、いちばん安全な方法だったから。
けれど今は、その安全な場所から、一歩だけ外に足を出してしまった。
戻り方が、分からない。
昼過ぎ、村の外れでルカを見かけたとき、胸の奥がきゅっと音を立てたような気がした。
彼は石垣のそばで荷物を広げ、地図を見ながら次に向かう道を考えているようだったが、その横顔を見ただけで、私は昨夜の丘の上の光景を、まるでつい先ほどのことのように思い出してしまう。
声をかけようとして、足が止まる。
昨日より、ほんの少しだけ近づきたいと思ってしまった自分に気づいて、私は慌てて距離を測った。
触れてはいけない。
近づきすぎてはいけない。
それでも。
「セフィ」
先に声をかけたのは、ルカの方だった。
名前を呼ばれただけで、胸が跳ねる。
そんな自分に、まだ慣れない。
「……こんにちは、ルカ」
声は思ったより落ち着いていたが、その分、心臓の音がうるさく感じられた。
「体調、どう?」
「大丈夫です」
本当は、ぜんぜん大丈夫じゃない。
でも、その理由をどう説明すればいいのか、まだ言葉にできなかった。
短い沈黙が落ちる。
不思議と、その沈黙は居心地が悪くなかった。
「昨日のことなんだけどさ」
ルカが、少しだけ慎重な声で切り出す。
「……怖くなかった?」
私は、すぐに答えられなかった。
怖かった。
でも、それだけじゃなかった。
「……怖かったです。でも」
一度言葉を切り、息を吸う。
「それ以上に、嬉しかった」
思っていたよりも、ずっと正直な声だった。
ルカは一瞬だけ目を見開き、それから、何かを確かめるように小さく笑った。
「そっか」
その一言に、胸の奥が少しだけ軽くなる。
並んで歩くあいだ、私たちは昨日よりもわずかに近い距離を保っていた。
触れてはいない。
でも、触れられるかもしれない距離。
「セフィさ」
ルカが、前を向いたまま言う。
「君は……今まで、本当に誰にも触れなかったんだよな」
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「はい。触れたものは、壊れてしまうので」
人は、特に。
その言葉を飲み込んだまま、私は続けた。
「だから、触らないようにして生きてきました」
それは事実だったし、誇張でもなかった。
ルカは、少しだけ歩調を緩める。
「……じゃあ、昨日は」
「例外、だと思います」
そう言いながら、私は自分のその言葉を信じきれていなかった。
ルカは、それ以上何も言わなかった。
でも、その沈黙には、考える余地が含まれている気がした。
夕方、私たちは丘の手前まで来ていた。
「もう一度、確かめる?」
ルカの声は、押しつけがましくなく、ただ選択肢を差し出すような響きだった。
胸の奥が、大きく波打つ。
「……少しだけ」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
ルカは、ゆっくりと手を差し出す。
「昨日と同じで。君からでいい」
逃げ道を残した距離。
それが、ありがたい。
一歩、前に出る。
昨日より、足が重い。
指先が、触れる。
何も、起きない。
胸の奥が、じん、と熱くなる。
「……大丈夫」
私の声は、かすれていた。
「うん」
ルカの声も、少し低かった。
でも、長くは触れられなかった。
心臓が速くなりすぎて、息が苦しくなり、私は慌てて手を離す。
「今の、どうだった?」
ルカの問いに、私は少し考えてから答えた。
「……昨日より、怖かったです」
正直な気持ちだった。
ルカは、苦笑する。
「俺もだよ、セフィ」
その一言で、胸の奥が静かに揺れた。
その夜、私は一人で考え続けていた。
なぜ、ルカだけは平気なのか。
なぜ、触れても壊れないのか。
答えは、まだ分からない。
でも、確かなことが一つだけあった。
私はもう、昨日までの距離に戻れない。
触れてはいけない。
そう思いながらも、触れたいと願ってしまう。
その矛盾が、胸の奥で静かに芽生えていた。




