第二部・第四話〜ヴァルディアの窓〜
ルカは、しばらくの間動けなかった。
眠っているようで眠りきれず、起きているようで起き上がれず。
目はときどき開いて、私を探すように揺れるのに、身体は重たい石みたいにベッドへ沈んだままだった。
私はルカの隣に抱きしめるように横になる。手を握り、背中をさする。
ルカが苦しそうな声を漏らしたり呼吸が浅くなったり深くなったりするときは抱え込むようにして強く抱きしめる。
夜のあいだ、部屋の空気が冷えすぎないように火を見て、彼が汗をかけば空気を入れ替え、水を欲しがれば口元へ運んだ。
それは、私が以前できなかったことだ。
ルカを抱きしめ近くにいられる。
その事実だけで、胸の奥が何度も熱くなった。
三日目の朝、ルカはようやく自力で上半身を起こした。
まだ顔色は少し悪くて、呼吸の浅さも残っている。けれど、目の焦点が合っていた。
「……セフィ」
名前を呼ばれただけで、私は少し笑ってしまう。
「どうしたの」
「いてくれてありがとう」
ルカは小さく息を吐いた。
難しい調整だと言っていたけどこれほど負担が大きいものになるとは予想できなかった。
「大丈夫なの?削られてない…?」
「ああ、削られてはなさそうだ。一人でやっていたときは解呪が多かったから調整にはまだ慣れていなくて力の使い方が難しいんだ」
「そうなんだ…」
“整える”ということが、彼にどれほどの負担をかけたのか私は全部を理解できていない。
それでも少しでも彼を守れたのなら――私はこの先も、隣に立っていたい。
「……ありがとう」
色んな想いが溢れて私がやっとそれだけ言うと、ルカは頼りなさげに微笑んだ。
「礼を言うのは俺の方だ」
四日目の朝、ルカの体調が戻り、私たちは街を発った。
宿屋の前でノアラとヴィクトルが見送ってくれる。
ノアラはもう、指先を気にして布を握りしめたりしない。
凍らない手で、迷いなく私たちの荷造りを手伝ってくれた。
「本当にありがとうございました」
「こちらこそ。……夢、話せましたか?」
「はい。ちゃんと。父も、聞いてくれました」
ヴィクトルは腕を組み、苦笑する。
「止めるつもりはない。戻る場所がここだと伝えただけだ」
ノアラが小さく笑う。
その笑顔が凍らないことに、私はほっとする。
ルカは深くは言葉を交わさず、頷くだけだった。
けれど、その頷きは確かだった。
彼なりの別れの形。
「きっとまた来てくださいね」
ノアラはそう言って抱きしめてくれた。
次の街までは街道を歩いて数日で着くという。
市場で必要なものを買い足し、私たちは街道を歩いた。
途中、宿場町の宿屋で一泊して私たちは更に先を急いだ。
地図を見ると森を抜ければ近道のはずだが、宿屋の女将は顔をしかめて言った。
「最近ね、晴れている日でも濃い霧が出るのよ。目の前の道も見えないくらい。森に入った人が迷って、奥まで行ってしまうこともあるって聞いたわ」
遠回りになるけれど、安全な街道沿いを行く方がいい、と。
ルカは一瞬、森の方角を見た。
「セフィもいるし街道を進もう。急ぐ旅じゃないしな」
その言葉は短いのに、胸の奥に残った。
私を危ない目に合わせたくない。
ルカのその思いがとても嬉しかった。
街道を歩いて二日、目的の街ヴァルディアの城壁が見えた。
王都に次ぐ第二の都市。
白い石壁が遠くまで続き、門の周りには荷馬車と人が溢れている。
空気が違う。
匂いが違う。
街の音が厚みを持って押し寄せる。
「……大きい街だね」
私が呟くと、ルカは小さく笑った。
「ここで、しばらく落ち着こうと思うんだ」
期間は決めていない、とルカは言った。
けれど私には、その曖昧さが心強かった。焦らずにいい、という意味に聞こえたから。
中心部から少し外れた宿屋に部屋を取ったその翌朝、ルカは外套を羽織りながら言った。
「行こう」
「どこへ?」
「依頼局」
“依頼局”という言葉に、私はまだ慣れていない。
けれど、彼が目指す場所が大きな機関であることは、道すがらの人の会話でもわかった。
辿り着いた先はとても大きな建物だった。
石造りの五階建て。
正面には広い階段があり、人が絶えず出入りしている。
中は高い天井に長い受付カウンター、奥には個室の相談室らしき扉。
さらに別の窓口には預り金や報酬の管理をする区画があるらしい。
半公的で大きな街に支店がいくつもあり、登録すればどこでも利用できる――ここに来る途中でルカにそんな話を聞いた。
正面に掲げられた正式名称は――ヴァルディア力務局。
けれど人々は皆、「依頼局」と呼ぶらしい。
ルカは迷いなく掲示板へ向かった。
壁いっぱいに張り紙が並んでいる。
護衛、修繕、能力の貸し出し、収穫の手伝い、相談事、仲介…
ルカは一枚の紙を貼った。
『解呪します。調整も可能。相談可。』
それだけ。
大声で名乗りもしない。派手に宣伝もしない。けれど、内容だけははっきりしている。
張り紙は誰でも貼れる。
人々はそれぞれ自分の用事で忙しい。
けれど――受付にいた女性だけが、動きを止めた。
彼女は張り紙を見つめ、瞬きを忘れたみたいに固まる。
「……これは!、少々こちらでお待ちください」
そう言い残して急いで奥へ消えた。
ルカは平然としている。
「何か問題でも?」
もう一人の受付の女性に尋ねるが答えは返ってこなかった。
数分後、受付の女性が奥から男性と共に戻ってきた。
落ち着いた身なりの男で、三十歳前後。姿勢が良く、目が鋭い。どこか“忙しい人”の匂いがする。
「ヴァルディア力務局、副局長のテオドールと申します」
丁寧な名乗りなのに、声が迷いなく響く。
「掲示板の張り紙を拝見しました。……あなたが、解呪師ですか?」
半信半疑。
それが言葉より先に空気として伝わってきた。
「そうだ」
ルカは短く答えた。
テオドールは私にも視線を向け、礼儀正しく頭を下げる。
「ご同伴の方は?」
「セフィです」
「セフィさん。失礼いたします」
テオドールはルカへ戻り、淡々と言った。
「森で問題が起きています。晴れている日でも濃い霧が発生し、採集に入った人間や通行人が迷う。死者や行方不明は出ていませんが、頻発しています」
私は宿場町の女将の言葉を思い出す。あの“晴天の霧”が、ここでも問題になっている。
「原因は、森の管理人――ダリウス本人だと判明しています」
「本人?」
「ええ。本人が自覚しています。呪いです」
テオドールは言葉を区切り、ルカを見た。
「失礼ですが……あなたの実力を、私が確認したい」
正直な人だ。回りくどくない。
「この問題を解決することも重要ですが、解呪師は希少です。その実力を見てみたい。もちろん報酬はお支払いします」
私はルカを見る。
ルカは少しだけ目を細めた。試されているのだと、彼もわかっている。
利用されるかもしれない。期待の裏に条件があるかもしれない。
全部わかった上で――彼は頷いた。
「構わない」
その声に迷いはない。
私は胸の奥が少しきしむ。怖い。
けれど、同時に――ルカが前へ進む覚悟を、私は止めたくなかった。
テオドールは小さく息を吐いた。
「明朝、局の裏門に。森へ向かいます。局としても軽々しく扱えない。だから副局長の私が同行します」
宿に戻る途中、私は何も言葉を発せなかった。
「セフィ、不安か?」
「……少し。でも、ルカがいるなら大丈夫だと思う」
ルカはふっと笑う。
「俺も、セフィがいるなら大丈夫だ」
その言葉が、胸の奥に灯りみたいに残った。
ヴァルディアの夜が窓の向こうで動いている。
ここはしばらく拠点になる街。
ここから、世界と繋がっていく。
私はそっと、ルカの手を握った。
明日、森へ行く。
私たちは少しの胸のざわつきを抱えたまま眠りについた。




