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第二部・第三話〜痛みを戻す日〜

空気が変わったのは、男の言葉が途切れた瞬間だった。

「怪我は、全部こっちに来る。エルンは痛くない。でも俺たちが……」

入口に立つ少年――エルンは、涙をいっぱいに溜めたまま、こちらを見ている。

怪我はない。膝も、腕も、服も汚れているだけだ。

けれど、母の腕や膝からは血が流れている。

私はルカを見る。

彼は静かに少年を見つめていた。

「呪いだな」

短い言葉。

男が息を呑む。

「ああ……」

「痛みを移してる」

ルカの声は低い。

エルンの肩が震えた。

「ぼく、わざとじゃない」

「わかってるよ」

私は膝を折り、エルンの目の高さに合わせる。

「転んだとき、痛くなかった?」

エルンは首を横に振る。

「平気だった。でも……母さんが痛そうで」

小さな声が、震える。

「父さんや母さんが痛いの、嫌なんだ。ぼくが痛いより、ずっと嫌だ」

母親が涙をこぼした。

「私たちは、あなたの痛みを代わってあげたいの」

父親も頷く。

「親だからな」

愛と愛がぶつかっている。

ルカがゆっくりと言う。

「…俺は解呪の力がある」

エルンの両親が顔を見合わせる。

「だけど今日は無理だ」

男が顔を上げる。

「無理……?」

「さっき解呪をした。負担が大きい。解呪には代償があるからな」

ルカは正直に言う。

私は胸の奥が少しだけ熱くなる。

無理をしない。

できることと、できないことを見極める。

それもまた、選ぶということ。

「別に解呪を強制するわけじゃない。明日、家に行く。その時に話を聞かせてくれ」

ルカは続けた。

「何かわかることがあるかもしれない」

父親が深く頭を下げる。

「頼む」

エルンはまだ泣いている。

けれど、どこか安堵したような顔でもある。

変えられるかもしれないことが、少しだけ救いなのだろう。




翌日。

エルンの家は宿から少し離れた街の外れにあった。

小さな庭のある、古いけれど丁寧に手入れされた家だ。

室内には、昨日の包帯と薬草の匂いがまだ残っている。

エルンは椅子に座り、落ち着かない様子で足をぶらぶらさせていた。

「エルン」

ルカが呼ぶ。

「お前の呪いは、“痛みを移す”呪いだ」

少年は顔を上げる。

父と母が息を呑む。

「エルンの呪いは少し強いものだな」

ルカは続ける。

「痛みは、少しずつ知るものだ。小さい怪我から、少しずつ痛みを経験していって強くなっていくんだ」

エルンの指が、ぎゅっと握られる。

「ぼく、痛いのは怖い」

「わかるよ」

私は静かに言う。

「でも、ずっと知らないままでいるのも、きっと怖いよ」

エルンは、私を見る。

「知らないと、どうなるの?」

「自分の身体が、何を感じているのか、わからなくなるかもしれない」


ルカが言葉を引き取る。

「痛みは、危険を教える。限界を教える。無理をしたら壊れると教えてもくれる」

私は思わず、自分の手を見る。

触れたら壊していた頃のことを思い出す。

痛みは、境界だ。

「完全に解呪すれば、もう周りには移らない」

ルカは言う。

「でもエルンは、十歳まで痛みを知らない。急に全部戻すのは、負担が大きいと思う」

母親の手が震える。

「じゃあ、どうすれば……」

「調整する」

ルカの声は低く、静かだ。

「七割はエルンが受ける。三割は両親に分ける」

父親が顔を上げる。

「……それで、本当に」

「うまくいくかはわからない」

ルカははっきり言った。

「難しい調整だからな」

部屋が静まる。

エルンは涙をこらえながら言った。

「ぼく、痛いのは怖い。でも……父さんと母さんだけが痛いのは、もっと嫌だ」

父親が目を閉じる。

母親が息を呑む。

「……やってくれ」

その言葉でルカが一歩前に出る。

「最後に聞く。七割だ。それでもいいか」

エルンは、ゆっくり頷いた。

「うん」

空気が張り詰める。

私はルカの背に触れる。

エルンから痛みを移す流れを、戻す。

一方通行の痛みを、分け合う痛みに。

見えない糸が、絡まり合っている。

エルンから両親へ、強く、太く。

それを、削らず、断たず、整える。

ルカの呼吸が荒くなる。

「……くっ」

私は背中に触れる手に、力を込める。

「大丈夫」

短く言う。

ルカの中の光が揺れる。

空気が震える。

そして――

ルカの鼓動が静まった。

「これで分け合う呪いへと調整ができたはずだ」

調整が終わった瞬間、ルカの膝が完全に崩れ落ちた。

床に手をついた指先が白くなり、息がうまく吸えず、喉の奥でかすれた音が鳴る。

「……重い」それだけを言うのがやっとだった。

その様子を心配してくれた父親が手を貸してくれてソファに横たわる。




エルンが恐る恐る床へと転んでみる。

膝を押さえる。

「……少し、いたい」

小さな声。

母親も同時にわずかに顔をしかめる。

三割。

分け合う痛み。

エルンは涙をこらえながら笑った。

「少しだけど、ちゃんと、痛い」

母親が抱きしめる。

「これでいいの」

父親が言う。

「これから少しずつ慣れていこう」

起き上がったルカが、ぐらりと揺れた。

「ルカ!」

私は支える。

いつもより明らかに重く削られている気がする。

「……もう大丈夫だ」

そう言いながら、立ち上がれない。

表情が険しく、汗が額を伝う。

呪いを整えるのは、消すより難しい場合もあるとルカは言っていた。



「数年後」

ルカが息を整えながら言う。

「またこの街に来る。その時、必要なら完全に解呪する」

エルンが顔を上げる。

「また来てくれるの?」

「たぶんな」

曖昧な答え。

でも、約束の種。

私はエルンを見る。

痛みを知った少年の顔は、少しだけ大人びて見えた。

私はルカの手を握る。

消すこともできる。

整えることもできる。

でも、選ぶのはいつも――その人だ。

私たちは、ただ隣に立つ。

そのために、旅を続けたいと思う。




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