第二部・第二話〜凍る指先〜
昼下がり、食堂の片づけが一段落した頃だった。
控えめなノックが、私たちの部屋の扉を叩いた。
「……失礼します」
入ってきたのは、宿屋の娘――ノアラだった。
編み込まれた髪には細い布のリボンが結ばれ、袖口には控えめなフリルが縫い足されている。
エプロンの裾には小さな花の刺繍。
制服でありながら、どこか彼女らしい柔らかさがある。
服が好きなのだと、見ているだけでわかる。
「父から聞きました。あなた達が、解呪ができるらしいと」
「お話をお伺いしても?」
私がそう言うと、ノアラは静かに頷いた。
「私の呪いは、気持ちが沈んだり、落ち込んだりすると、触れたものを凍らせてしまいます」
指先を見つめる。湯を扱うせいか、少し荒れている。
けれど爪の縁は丁寧に整えられ、磨かれている。
「物だけです。人は……触れると少し冷たくなる程度で」
その声に、長く抱えてきた静かな疲れが滲んでいた。
「これまでは、上手く気持ちを切り替えてきました。凍らせないように。困ることも、数えるほどで。だから、抱えたまま生きていこうと思っていました」
少し間を置く。
「でも、この一年……増えてしまって」
机の縁に触れた指先から、薄く霜が広がる。
「父は宿を継いでほしいと思っています。言葉にはしません。でも、分かるんです」
声が揺れる。
「宿屋の仕事は好きです。父のことも、大好きです。でも……夢があって」
その時、霜は出ない。
「大きな街で、服屋で働きたいんです。布に触れて、色を選んで、誰かの“似合う”を探す仕事がしたい」
窓の外へ視線を向ける。
「旅人の服を見るたびに、胸がざわつくんです。知らない色、知らない形。どこの街の服なんだろうって。もっと詳しく知りたいって」
夢を語る時の彼女は、凍らない。
「でも父は、この宿をずっと守ってきました。私が継げば、安心するはずです」
霜が、机に走る。
私はその白さを見つめる。
夢が悪いのではない。
ノアラの父に対する優しさが凍らせている。
私はルカを見る。
「できる?」
「できる」
短い答え。
そしてルカはノアラをまっすぐ見つめた。
「完全に消える。もう凍らせることはできなくなる。それでもいいのか?」
部屋が静まり返る。
私は口を挟まない。これは彼女の選択だ。
ノアラは、ゆっくりと指先を握った。
「……この呪いは、私の一部でした。でも、ずっと負担でもありました。気持ちが沈むたびに、周りに知られてしまうのが怖かった」
顔を上げる。
「凍らせなくても、自分の言葉で伝えたいです」
迷いはある。けれど逃げない目だった。
「後悔しないか?」
「しません」
ルカが手をかざす。
空気が震え、冷気が一点に集まる。
私は彼の背に触れ、支える。
目には見えない凍りの核にひびが入り、音もなく崩れ落ちた。
「……触ってみろ」
ノアラが机に触れる。
凍らない。
もう一度触れる。
何も起こらない。
彼女は小さく息を吐いた。
「静か……」
凍りの呪いは消えた。
両手を胸の前で握る。
「…私はずっと、父が話してくれるのを待っていればいいのだと思っていました。でも……本当は、私が言うのを待っているのかもしれません」
私は頷く。
「優しい方ですね。お二人とも」
ノアラは涙を拭きながら笑った。
夕暮れ前、彼女は父に夢を打ち明けた。
震える声が食堂から聞こえる。
私たちはそっと様子を見に行ったけれど凍る音はしなかった。
その時だった。
扉が勢いよく開いた。
「すまない、手当をさせてくれないか!」
男が、血を流す妻を抱えて飛び込んできた。
「息子が転んだ。でも怪我はない。でも妻が……!」
ヴィクトルがすぐに動いた。
「ノアラ、包帯と薬草を」
「はい、父さん!」
迷いのない返事だった。
さきほどまで震えていた声とは違う。
凍らない手で、彼女は棚から清潔な布を取り出す。
私はその指先を見る。
白くならない。
冷気も走らない。
ノアラは血を流している妻の腕と膝をそっと支え、血を拭う。
その様子を見て、ヴィクトルの目がわずかに揺れた。
けれど何も言わない。
ただ、静かに娘と並んで処置をする。
「息子が転んだだけなんだ」
男が息を切らせながら言う。
「段差につまずいて、派手に転んだ。でも怪我はない。泣きもしない。だけど妻が…」
ノアラの手が止まる。
「どうして奥様が?」
問いかける声は落ち着いている。
「小さいころからだ。息子…、エルンが転ぶたびに、私たちが怪我をする」
ヴィクトルが低く言う。
「息子さんは?」
「平気だ。いつも、平気なんだ。かすり傷一つない」
私はルカを見る。
彼は静かに、少年の方へ視線を向けている。
宿屋の入口で、小さな男の子が涙をいっぱいに浮かべてこちらを見ていた。
顔色は悪いが、怪我はない。
それでも、母親の血を見て、強く唇を噛んでいる。
「……ぼくのせいだ」
小さく、呟く。
ノアラの手が、少年の肩に触れる。
「大丈夫ですよ」
ヴィクトルが男に言う。
「落ち着いて話してくれ。息子さんのことを」
男は震える声で続ける。
「怪我は、全部こっちに来る。エルンは痛くない。でも俺たちが……」
その瞬間、空気が変わった。
私はルカを見る。
彼も、気づいていた。




