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第二部・第一話〜桜色の靄〜

いくつかの街を越えてきた。

山間の小さな村では、夜になると記憶が逆さに流れる呪いをほどき、港町では、怒りを飲み込むたびに喉に棘が生える少年の呪いを調整し、大きな街の外れでは、眠るたびに未来の断片を見る少女の視界を少しだけ曇らせることで日常に戻した。

解呪は、必ずしも“消す”ことではないと、私たちはこの旅で学び始めている。

完全に断ち切るべきものもあれば、形を変え、濃度を薄め、持ち主が生きやすい重さへと整えるべきものもある。

春の街へ向かう道を歩きながら、私は柔らかな陽射しの中で自分の指先を見つめた。

かつて触れれば壊れた手は、もう何も壊さない。

奇跡ではなく、現実だ。

石橋の欄干に触れ、野花を摘み、宿屋の木製の扉をためらいなく押すたびに、世界は自分を拒まないのだと、ゆっくりと身体が覚えていく。

それでも、壊してしまった日の記憶は、色褪せることなく胸の奥に残っている。

触れられなかった孤独も、触れられた相手の怯えた瞳も、忘れてはいない。

だからこそ、呪いに縛られている人の視線の揺れや、息の詰まりを、すぐに見つけられる。



「今回は“調整”になりそうだな」

隣を歩くルカが、手元の紙片を折り畳みながら言った。

「完全解除じゃなくて?」

「依頼内容を見る限りはな。力そのものを消す必要はない。ただ、溢れている部分だけを抑えたいらしい」

春の街は、桜がちょうど盛りを迎えていた。

石畳に花びらが重なり、風が吹くたびに淡い波のように舞い上がる。

けれど、この街で色が見えているのは、ただ一人だけだ。

花屋の娘のアリシア。

彼女には、様々な感情が色として見える。

怒りは深い赤で、嫉妬は濁った緑で、安堵は淡い水色で、後悔は紫がかった灰で、そして恋は――桜色。

ただし、それは他人の話だ。

他人の感情は、彼女にしか見えない。

世界は変わっていない。

色が実際に浮かんでいるわけではない。

彼女の視界だけが、色づいている。

問題は、そこではなかった。




花屋の奥で、アリシアは両手を強く握りしめていた。

彼女の視界では、世界が淡く揺れている。

通りを歩く夫婦の間には穏やかな橙が流れ、喧嘩をしている恋人の間には不安定な赤がちらつき、幼い子どもを抱く母親の胸元には温かな金色が灯っている。

色を見ること自体は、もう慣れていた。

辛くないと言えば嘘になるが、絶望するほどではない。

問題は、自分だ。

アリシアが恋をすると、その感情だけが視界の内側に収まらない。

桜色の靄が、彼女の身体の外へと滲み出し、空気の中に溶けるように広がる。

そして、その靄は――アリシアが好きな相手にも、当然見えてしまう。

「……来てくれたんですね」

セフィとルカを見つけたアリシアは、どこか恥ずかしそうに笑った。

その瞬間、彼女の肩口から淡い桜色の靄がふわりと零れ、風もないのに揺らめく。

セフィは胸がきゅっと締めつけられる。

美しい。

けれど、隠せない。

「彼、もう知ってるんです」

アリシアは小さな声で言った。

通りの向かいのパン屋で、小麦色の髪の青年が客に笑いかけている。

彼はアリシアを見た時、ほんの少しだけ困った顔をする。

優しさと、戸惑いと、そして“わかってしまっている”色が、彼の胸元に揺れている。

アリシアには、それも見えている。

「私が好きだって、隠す前に知られてしまうんです」

告白する勇気も、迷う時間も、覚悟を決める猶予もなく、想いは先に届いてしまう。

桜色の靄は、彼の視界に流れ込み、彼の胸に触れ、答えを急かす。

「だから、ちゃんと好きになれない」

アリシアの声は静かだった。

「深く好きになる前に、終わるんです」



ルカはしばらく彼女を見つめ、それからゆっくりと頷いた。

「力そのものは消さない。色が見えることは、君の一部だ。けど――溢れている部分だけを抑える」

「できますか?」

「できる。少し、能力が削れるかもしれないけどな」

その言葉に、セフィは一瞬だけルカを見る。

削る、という言葉の重さを、彼女は知っている。

けれど今回は、深くはない。

調整だ。

自分では抑えきれない部分を整えるだけ。

ルカがアリシアの前に立ち、指先を彼女の胸元へとかざす。

桜色の靄が揺れ、淡く光を帯びる。

解呪は、いつも音がしない。

ただ、結び目の位置が変わる。

感情と力を結びつけている糸を、少しだけ緩める。

桜色の靄が、ふわりと持ち上がり、糸のように細くなり、彼女の身体の内側へと引き戻されていく。

セフィはその様子を見守りながら、アリシアの手を握った。

触れられる。

壊さない。

ただ、温もりを伝える。

アリシアの指先が、少し震えている。

好きという感情を、初めて自分の中だけに留める感覚。

桜色は、もう溢れない。

彼女の視界の中にだけ、静かに灯っている。



解呪が終わったあと、アリシアはゆっくりとパン屋の前へ歩いていった。

桜色は外へ出ない。

今度は、彼女が選べる。

告げるか、告げないか。

踏み出すか、踏みとどまるか。

「おはよう」

ただ、それだけの挨拶。

彼はいつも通りに笑う。

世界は、静かだ。

急かされない。

アリシアはその静けさを、胸いっぱいに吸い込んだ。



帰り道、私は思わずは長く息を吐いた。

「好きって気持ちを、守る解呪だったね」

「全部消すより難しいんだ」

ルカは軽く笑う。

空を見上げると桜が舞っている。

触れられる。

壊さない。

そして今は、誰かの想いを壊さずに、そっと整えることができる。

かつて呪いに閉じ込められていた自分だからこそ、溢れてしまう感情の怖さも、隠せない孤独も、わかる。

世界は、以前より明るい。

けれど、その明るさは、痛みを知らなかった頃の無邪気さではない。

痛みを知ったあとに、選び取る光だ。

私は、自分の手を軽く握った。

壊さない手。

寄り添える手。

そして今は――

ルカと共に誰かの助けになれるかもしれない手。

いつか、今の私たちでは計れない痛みが訪れるかもしれない。

その時も、隣に立てるように。




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