第十二話〜行き先のない、旅立ち〜
家を出る準備は、驚くほど静かに進んだ。
荷物は少ない。
あまり多くない持ち物の中から、必要なものだけを選んだ。
着替えと、少しの食料と、擦り切れた布袋。
それだけで、私の人生は、簡単にこの家から切り離されてしまう。
夜明け前の空気は冷たく、吐く息が白い。
物音を立てないように、戸に手をかけた、そのときだった。
「……もう行くのか」
低い声が、背後から落ちた。
心臓が、大きく跳ねる。
振り返ると、父が立っていた。
灯りもつけず、闇の中で、私を見ている。
「起こしてしまいましたか」
そう言うと、父は小さく首を振った。
「そういうわけじゃない」
少し間を置いてから、続ける。
「……お前の変化に気づいていた」
それだけで、胸が詰まった。
父は、私を見ない。
私の後ろ、開け放たれた戸の向こうを見ている。
「行き先は」
「まだ、決めていません」
正直に答える。
父は、鼻で息をついた。
「お前らしいな」
それは、責める声じゃなかった。
長い沈黙が落ちる。
私は、何か言わなければと思った。
でも、謝る言葉も、約束する言葉も、どれも違う気がした。
父の背中は、昔より小さく見える。
あの背中に、私は触れたことがなかった。
怖かったし、許されないと思っていた。
でも今は、ただ、離れていく。
父は、しばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「……元気で、過ごせよ」
それだけだった。
引き止めるでもなく、励ますでもなく、行くなとも、戻れとも言わない。
それでも、その一言には、今までのすべてが含まれているように感じた。
「……はい」
声が、少しだけ震えた。
父は、それ以上何も言わなかった。
家を出ると、ルカが少し離れたところで待っていた。
夜明け前の薄い光の中で、私を見ると、小さく頷く。
「……大丈夫だった?」
「うん」
それ以上は言わない。
言わなくても、分かってしまう距離になっていた。
村を出る道は、思ったよりもあっさりしていた。
振り返っても、誰も追ってこない。
怒号も、罵声もない。
ただ、夜明け前の風が吹いている。
「……どこへ行こうか」
私がそう言うと、ルカは少し考えてから答えた。
「決めなくていい」
意外な言葉だった。
「今は、決めなくていい。行けるところまで行こう」
私は、少しだけ笑った。
「家も、街も、まだ分からないけど」
「うん」
ルカは頷く。
「仕事は、俺がする」
その言い方は、以前とは違った。
無理を背負う声音じゃない。
「解呪をしながら、金を稼ぐ。でも、断るときは断る、セフィが俺を癒してくれるんだろ?」
私は、彼を見る。
「私も、一緒に判断する」
「もちろん」
即答だった。
私たちは、まだ何者でもない。
解呪師と、その傍にいる少女。
それだけだ。
でも、それでいいと思えた。
私には、もう壊す呪いはない。
ルカには、もう一人で削れる理由はない。
行き先が決まっていないことが、不安ではなく、自由に思えた。
村の境を越えるとき、私は一度だけ振り返った。
父の姿は、もう見えない。
それでも、背中に残る感覚がある。
行っていい、と。
生きていい、と。
私は、深く息を吸った。
ルカが、隣を歩いている。
触れない距離だけれど、離れない距離。
これから先、何が起きるかは分からない。
でも。
解呪をしながら、癒しながら、眠らせながら。
二人で生きていく。
それだけは、もう決まっていた。




