第十一話〜眠らせる者、癒す者〜
セフィの呪いを解くと決めた朝は、驚くほど静かだった。
村を出る準備を進めながらも、私たちはほとんど言葉を交わさず、まるでこの時間が壊れやすいものであるかのように、互いの存在を確かめ合うような距離で歩いていた。
呪いは眠っている。
完全に解けたわけではない。
その事実が、私の胸に小さな緊張を残し続けていた。
場所は、村外れの小さな林の中だった。
人目がなく、風の音だけが聞こえる場所で、ルカは静かに立ち止まり、私の方を振り返った。
「……ここでいい?」
私は、ゆっくり頷いた。
怖くないと言えば、嘘になる。
でも、逃げたいとは思わなかった。
私は、彼の前に立つ。
「もし……何かあったら」
言いかけて、言葉が詰まる。
ルカは、私の不安を察したのか、小さく笑った。
「大丈夫。ちゃんと向き合って解く」
それは、今まで何度も呪いを解いてきた人の言葉だったけれど、そこには以前のような覚悟の重さではなく、どこか穏やかな確信が混じっていた。
ルカが、そっと手を伸ばす。
私は目を閉じた。
壊れる感覚は、来なかった。
代わりに、胸の奥がひどく静かになる。
何かが抜け落ちるような、でも失われるのではなく、長く握りしめていたものを、ようやく手放したような感覚。
息が、自然に深くなる。
怖さが、薄れていく。
それが呪いだと気づくより先に、私は理解した。
――終わった。
ルカが手を引く。
「……どう?」
私は、ゆっくりと目を開いた。
道端の野花に触れてみる。
触れても、壊れない。
自分の指先を、恐る恐る確かめる。
何も起きない。
「……大丈夫、みたい」
声が、少しだけ震えた。
ルカは、私をじっと見つめてから、ほっと息をついた。
その瞬間、私は気づかなかった。
自分のことでいっぱいだったから。
ルカが自分の身体の異変に驚いていることを。
この前の解呪後に見せたルカの表情の歪みが出ていないことを。
解いた。
確かに、解いた。
でも、削られていない。
解呪のあと、必ず身体の奥に落ちてくる、あの冷たい感覚がない。
時間が経つにつれ重くなるはずの呼吸も、指先の冷えも、ない。
俺は歩きながら、自分の内側を何度も確かめていた。
――残っている。
それが、正直な感覚だった。
生きている感じが、ちゃんとある。
怖くなる。
でも同時に、胸の奥が熱くなる。
これは、偶然じゃない。
セフィの呪いは、想いのある解呪だった。
俺は初めて、“誰かのために”ではなく、“誰かと一緒に”解呪をした。
それが、代償を変えた。
翌日、私たちは村を出る準備を進めていた。
その途中で、事件は起きた。
近隣の村から来たという男が、助けを求めて現れたのだ。
顔色は悪く、目は焦点を結んでいない。
呪いだと、すぐに分かった。
しかも、重い。
セフィが、一瞬だけ俺を見る。
迷いと、不安と、でも覚悟。
――逃げられない。
俺は、男の前に立った。
解呪を引き受けた瞬間、昨日は感じなかった感覚が戻ってくる。
胸の奥が、冷える。
息が、重くなる。
――これだ。
想いのない解呪。
ただの依頼。
ただの取引。
呪いは、容赦なく俺の中に流れ込んでくる。
それでも、解く。
男が安堵の声を上げる。
代わりに、俺の内側が軋む。
夜。
焚き火のそばで、俺は膝を抱えていた。
冷えが、骨まで届く。
呼吸が、浅くなる。
――やっぱり、来た。
昨夜はなかったのに。
あの確信は、間違いだったのか。
そう思いかけたとき、背後から、温度が重なった。
セフィだった。
何も言わず、ただ、そっと抱きしめてくる。
不思議なことに、苦しさが、そこで止まった。
消えたわけじゃない。
でも、沈まない。
胸の奥で暴れていた冷えが、動きを失っていく。
呼吸が、少しずつ深くなる。
俺は、初めて理解した。
――これは、癒されている。
セフィは、俺の背中に額を当てたまま、静かに息をしていた。
離れない。
逃げない。
それだけで、呪いが、居場所を失っていく。
俺は、目を閉じた。
眠気が、自然に訪れる。
今まで、どんな夜も、こんなふうに眠れたことはなかった。
朝、目を覚ますと、身体は軽かった。
削られた感覚は、ない。
昨日の解呪の痕跡が、どこにも残っていない。
俺は、隣で眠るセフィを見た。
――確信に変わった。
想われることが、抱きしめられることが、セフィと眠ることが、俺の代償を、癒している。
俺は、もう一人で呪いを引き受けなくていい。
この人となら、生きていける。
それは、希望であり、事実だった。




