第十話〜眠ったままの、呪い〜
夜明け前の村は、音が少ない。
遠くで鳥が鳴き、どこかの家の戸が軋む音がして、それだけで世界がまだ動いていることが分かる。
私は井戸のそばに立ち、水面を見つめていた。
そこに映る自分の顔は、いつもより少しだけ穏やかに見える。
呪いが眠っているからだ。
触れても、壊れない。
けれど、それは「解けた」わけじゃない。
ただ、眠っているだけ。
私は、その曖昧な状態が、このまま続くとは思えなかった。
「……早いな」
背後から声がして、振り返る。
声を聞くだけでルカだとすぐにわかる。
少し眠そうな顔をしているけれど、目は覚めている。
私を見る視線は、どこか慎重で、優しい。
「眠れなかった?」
「まあ、そんなところ」
それ以上は言わない。
彼が、夜になると何かを考えていることは分かる。
解呪という力を持っていることも、それが軽いものではないことも。
――何かが、削られる。
それ以上のことは、私は知らない。
でも、それだけで十分、怖かった。
しばらく、二人で水面を眺めていた。
沈黙は、気まずくない。
けれど、胸の奥に溜まった言葉が、静かに重みを持っていく。
「……ねえ、ルカ」
私が先に口を開いた。
「私の呪い、まだ解けてないよね」
ルカは、一瞬だけ驚いた顔をしてから、静かに頷いた。
「うん。眠ってるだけだと思う」
誤魔化さない答えだった。
「このままじゃ……いられない気がする」
私は、村の方を見る。
視線が増えた。
距離も、空気も、少しずつ変わっている。
「また、壊すかもしれない。怖くなったら……きっと」
それは、予感じゃない。
忌み手として長い時間を過ごしてきたからこそ分かる、確信だった。
ルカは、少し考えてから言った。
「……だから、ここを出る?」
私は、ゆっくり頷いた。
「うん」
言葉にすると、簡単だった。
でも、その先に続く言葉は、簡単じゃない。
「それと……」
喉が、少しだけ詰まる。
「私の呪い……解けたら解きたい」
その瞬間、ルカの表情が、ほんのわずかに変わった。
私は、それ以上続けられなかった。
分かっている。
解呪は、ただの「力」じゃない。
何かを引き換えにする行為だ。
具体的に何が削られるのかは予想でしかない。
でも、軽いものじゃないことだけは、分かる。
それを、自分のために使ってほしいと願うことが、どれほど残酷かも。
私は、しばらく黙ってから、意を決して顔を上げた。
「……もし、できるなら」
声が、思ったより小さくなった。
「私の呪いを、解いてもらえますか」
一拍、間が空く。
心臓が、やけに大きな音を立てる。
「無理なら、言ってください」
本心だった。
断られても、責めるつもりはない。
それでも、最後に。
「でも……私は、あなたにお願いしたいです」
それは、依存じゃない。
信頼だった。
ルカは、すぐには答えなかった。
それは迷いではなく、その言葉を軽く扱わないための沈黙に思えた。
やがて、彼は静かに口を開く。
「……正直に言うと」
視線を外しながら。
「呪いを解くのは、簡単なことじゃない」
私は、息を呑んだ。
「代償がある」
それだけしか、彼は言わなかった。
それで十分だった。
でも、ルカは続ける。
「それでも……」
一瞬、言葉を探すように間があって。
「君の前で、俺の力は、今までと少し違う気がしてる」
断言ではない。
説明でもない。
ただの、感覚。
「理由は、分からない」
正直な声だった。
「でも、君の呪いなら……削られ方が、違うかもしれない」
“違うかもしれない”。
希望だけを、そっと差し出す言い方。
私は、その言葉を胸の奥で何度も反芻した。
怖い。
それでも。
この人に、お願いしたい。
「……それでも、お願いしてもいいですか」
私がそう言うと、ルカは、少しだけ困ったように笑った。
「うん。俺も試してみたい。やってみよう」
短い返事だった。
でも、その一言で、私たちはもう、同じ方向を向いていた。
太陽が、ゆっくりと昇り始める。
呪いを解く選択。
村を出る決断。
どちらも、終わりじゃない。
眠ったままの呪いを抱えたまま、それでも進むと決めた朝だった。




