第一話〜忌み手の少女〜
忌み手の少女。
物心ついた頃から、そう呼ばれていた。
私自身がそう名乗ったことは一度もないし、誰かにそう名乗るよう求められた覚えもないのに、その言葉だけはいつの間にか私の名前より先に村に根づいていて、気づけばそれが私という存在を説明するいちばん簡単な呼び名になっていた。
触れてはいけない。
それが、私の世界のすべてだった。
誰かの手に触れれば、その人は苦しみ、時には立っていられなくなり、物であればひびが入り、割れ、元には戻らなくなる――理由は分からないけれど、そういう結果だけは、幼い頃から何度も見せつけられてきた。
だから私は、人と人とのあいだにあるべき距離を、誰よりも早く覚えた子どもだったのだと思う。
一歩下がる癖。
近づかれたら息を止める反射。
手を背中に回して、何も触れないようにする仕草。
それらは全部、生き延びるために身につけた、無意識の選択だった。
それが普通で、それ以外の生き方があるなんて、考えたこともなかった。
あの青年に会うまでは。
井戸の前で水桶を持ち上げた瞬間、木の縁に走る細いひびが、朝の光を受けてはっきりと見えた。
私はほんの一瞬だけ指を止めて、そのひびを確かめる。
この水桶も、もう長くは使えない。
私が毎日触るものは、いつもそうだった。
それでも水は汲まなければならないし、桶が壊れる前に次を用意するだけのことだと、私はごく当たり前のことのように考えながら、再び持ち上げる。
そのとき、背後から声がした。
「重そうだな」
心臓が跳ね、身体が考えるより先に半歩後ろへ下がっていたのは、もう癖というより条件反射に近いものだった。
振り返ると、見知らぬ青年が立っていた。
私より少し年上に見えるその人は、旅装束で肩や袖に長い道のりを歩いてきた痕を残しているのに、表情だけは妙に落ち着いていて、まるでここが初めて訪れる村ではないかのような、よそ者らしからぬ静けさをまとっていた。
「だ、だいじょうぶです」
声が少し硬くなるのを自覚しながら答える。
青年は、私の反応を一瞬で察したのだろう、それ以上距離を詰めることも、水桶を取ろうとすることもなく、その場で立ち止まり、小さく首を傾げた。
近づいてこない。
それだけのことで、胸の奥がほんの少しだけ緩んだ。
「俺はルカ。あちこち旅してるんだ」
名乗り方は簡単で、余計な説明はなかった。
「……セフィです」
そう返すと、彼は私の名前を一度口の中でなぞるようにしてから、静かに微笑った。
「セフィ。いい名前だな」
特別に優しいわけでも、同情が混じっているわけでもない声だったからこそ、その一言が胸の奥に残った。
名前を呼ばれるという、ただそれだけのことが、こんなにも心を揺らすものだとは、私は知らなかった。
その日の夜、私は頼まれて食事を運んだ。
空き家の扉の前で立ち止まり、深く息を吸い、皿を持つ手の位置を何度も確かめる――触れないこと、それだけに意識を集中させるのは、私にとって当たり前の準備だった。
村に着いてからの短いあいだに、彼は何度も同じ忠告を受けていたのだろう。
あの子には、触れるな、と。
「ありがとう」
扉を開けたルカはそう言いながら、すぐには皿を受け取ろうとせず、私の手元を一度見てから、説明することもなく自然な動作で一歩だけ後ろに下がった。
「あ、そこに置いて」
触れないための距離。
それを当然のことのように選んでくれたことが、胸に静かに刺さる。
「触れたら、まずいんだろ」
責めるでも、怯えるでもなく、事実を確認するだけの声だった。
「……はい」
小さく答えると、ルカはそれ以上何も聞かなかった。
その沈黙が、なぜだか少しだけ苦しかった。
彼は、食事を終えるまでのあいだ、何度か私の方を見ていた。
触れたら壊れる、と聞いても、必要以上に距離を取ろうとはせず、むしろどうすれば互いに困らずに過ごせるかを考えている目をしているように感じた。
触れたものが壊れる、という呪いを恐怖ではなく現象として見ようとする視線が、無意識のうちに滲んでいた。
もっとも、その時点では、彼自身もまだ気づいていなかったのだと思う。
自分が、例外になりつつあることに。
翌日、村の外れでルカを見かけたとき、私は無意識のうちに足を止めていた。
触れない。
近づかない。
それでも、視線だけは勝手に彼を追ってしまう。
「星、見に行かない?」
夕暮れ時、そう声をかけられたとき、断る理由はいくつも頭に浮かんだはずなのに、そのどれもが言葉になる前に消えてしまった。
丘の上は静かで、夜風が少し冷たく、並んで座る私たちのあいだには、いつも通りの距離があった。
「君さ」
ルカが、夜空を見上げたまま言う。
「自分のこと、忌み手だと思ってるだろ」
胸の奥が、きしんだ。
「……はい」
でも、それって全部、本当かな」
その問いは、私を試すためのものではなく、彼自身が確かめるための言葉のように思えた。
「さっき、君の後ろで転びそうになったとき」
心臓が跳ねる。
「指先に微かに触れたの…気づいた?」
息が止まった。
「一瞬だけ。でも……何も起きなかった」
そんなはずはない。
今まで、例外なんてなかった。
それでも、彼の声は揺れていなかった。
月明かりの下で、彼は私に向き直り、ゆっくりと手を差し出した。
「確かめてもいい?」
世界が、静止する。
「触れない。君が来るまでは」
逃げ道を残した距離。
強制しない姿勢。
怖かった。
それでも――。
私は、一歩前に出た。
指先が、触れる。
何も、起きない。
壊れない。
苦しまない。
ただ、あたたかい。
息をするのを忘れた私に、ルカは小さく息を吐いて笑った。
「……大丈夫だな」
その声の奥で、彼自身もまた、確信と戸惑いのあいだに立ち尽くしていた。
理由はわからない。
けれど確かに呪いは眠っている。
私は、手を離すことができなかった。
忌み手の少女として生きてきた私の世界は、その夜、音もなく形を変えてしまったのだ。




