雨だれ石を穿つ
私は生来付き合いのあった友人をなくした。つい最近のこと、友人は何者かによって殺された。噂話では何かバットのようなもので殴られ頭蓋骨が割れていたとのことだ。
彼は生活面においても人間性に関してもだらしがなく、遅刻や物の貸し借り、挙句の果てには連帯保証人なんかもしていたようだった。彼のこれまでの行いを振り返ると恨みを買って殺されても致し方ないのかもしれない。今頃天国ではなく地獄に行って反省をしていることだろう。
彼との出会いは小学生の頃までさかのぼる。家が隣同士だったこともあり仲良くせざるを得なかった。彼は学校内で友人を作るのがうまく、いろんな人に甘やかされ、助けられながら生きてきた。鉛筆を忘れたから貸してほしい、宿題をやり忘れたから写させてほしい、家の用事があるから掃除当番を代わってほしい等あらゆる面で頼られていた。時間が過ぎていき中学や高校、大学に至るまで同じ時間を過ごしていたが指が何本あっても足りないほどの数を彼に頼られ、私はそれに応えてきた。
少し話題を変えるがことわざに雨だれ石を穿つというのがある。意味合いとしては小さなことでも積み重ねると大きな成果になるというものだ。実際、彼が私を頼る積み重ねが長年の友情を成果として作っている。
だからこそ私は彼を殺した。ことわざの通りに少しずつじっくりと彼の頭を殴り続けた。最初は人の形を保っていたが殴り続けるにつれ赤い液体が増えていき、肉がはがれ骨も見えてくるようになった。そして彼は何も物言わぬ肉塊になった。
私が彼を殺した理由というのはとてもシンプルなものだった。彼のこれまで積み重ねてきた小さな行いの積み重ねが憎かったからだ。小さいころは頼られていたという気持ちから彼の甘えに応えてきたが、それも成人していくにつれ、ただ利用されているだけの存在であったと認識してしまったある日からこれまで抱いていた信頼が憎しみの感情へと変化しただけのことだった。
雨だれ石を穿つという言葉はもともと戒めの意味を持って使われていたという説明もある。小さなことが積み重なればそれは大きな災いになるという戒めだそうだ。彼のこれまで甘えてきた小さなことの積み重ねが災いとして返ってきた、ただそれだけなのである。
かくいう私も両親をはじめあらゆる人に頼って生きている。それら人との間には多少の信頼・友情・愛情が生まれてくる。私は積み重なる友人の扱い、形だけの友情に苛立ち、飽き飽きとしてしまったがために彼を殺した。もしかしたら私が頼っている両親も積もり積もれば私のことを殺そうとしてくるのかもしれない。少しづつ変わっていく関係値というのに人は振り回されて生きている。
ほどほどの時間が経ち、警察が私の元へときた。かけられた容疑は勿論、彼の殺害。警察に連行され裁かれ、まもなく死刑をもってその罪を清算する。私は死刑台の上で、私の死は彼のためになったのか、そう思いながら首を縛られた。
小さなことが積み重なって良いものになるのか悪いものになるのかはその人の思いやりや行い次第で変わってくる。
私の生涯は小さな恨みの積み重ねが死の間際も彼に縛られる歪んだ友情という形で成り終わるのだった。