第48話 ここにいる
翌朝、港の甘い匂いは“睡貝を煮る葡萄糖”に変わっていた。港湾局は睡貝を回収し、厨房で砂糖菓子へ降格させる。罪は食べ物へと処置され、牙を抜かれた匂いが街に広がった。
豹鱗は作業着に袖を通し、杭の列を一本だけわざとずらす。
豹鱗「等間隔は美しい。だから、罪が隠れやすい。これからは“ずれ”を標準に」
獅王が笑い、杭の影を指でなぞる。
獅王「いいずれだ。獲物は穴を失う」
王城では、女王が遅延の印を封筒へ入れ、私に預けた。
エルフィラ「返す必要が生じたときだけ、開けなさい。遅延は愛の手つきであり、負債の手口でもある」
燈司は封の仕様を記録し、公開範囲を定める。秘密はもう“誰か一人の所有物”ではない。都市で共有される責任になった。
市井では“呼び合い”が生活の儀式に溶けた。台所は調理前に二唱、舟室は出航前に二唱、屋台は閉店前に二唱。学び舎の子どもたちは、点呼の代わりに『ここにいる』を歌にして覚える。三回、最後の半拍は遅らせる。━━“けほけほ、けほ”。
渇きはその咳を嫌い、街角で育ち損ねる。
塔室、灯の温度。アガニオが掌を重ねる。
アガニオ「君の沈黙、今日は俺が守る番じゃない?」
ネライア「守られたいけど、守る。二人分で」
嫉妬は灯り、疑心は刃。彼の火は前者のまま、私の喉を温める。白叉を布に包み直し、柄に額を当てる。問いはまだ続く。『誰に返す?』
ネライア「まず私へ。次に、あなたへ。次いで、皆へ」
音依亜とネライアを交互に呼ぶ。喉が濡れ、胸の拍が街の拍と重なる。
猫嵐が窓外で風を弾ませる。
猫嵐「ずれた灯、好き。音楽みたいだね」
狩真は刀を拭い、鞘に収めたまま言う。
狩真「抜かない時間が長いほど、抜く日が遠のく」
リコイは砂時計を横倒しにして微笑む。
リコイ「時間はもうこちらの味方」
私は小さく息を吸い、街へ向けて言う。
ネライア「ここにいる。ここにいる」
風は門の閂、火は灯り、水は羅針。伴柱は立ち、都市は眠り、そして起き続ける。明日は作業の続き。作業は英雄譚より長持ちする。
白叉は一振り。運用鍵は三分。三者一致でしか開かない質問は、今日も街のどこかで小さく鳴り、誰かの名を返す。
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現代側
『水は匿名、火は署名―渚ヶ丘高校・潮祭ホイッスル係の夏―』を、Talesで公開しました。
“波に呑まれる前”――ネライアになる前の音依亜の高校最後の夏を描いた短編です。
https://tales.note.com/noveng_musiq/wov407nuyxiwa
読み順:本編の重大ネタバレは避けてあります。今読んでも、後で読んでもOK。
もし読んで「ここが好き」「この一文が刺さった」などありましたら、感想やレビューをいただけると本編の筆がさらに進みます。
引き続き、波と炎の行方を見届けていただければ嬉しいです。




