第46話 返す順番
夜明け三度、掌の火炎紋は微光を取り戻した。刃にはしない――拍だけを照らす灯。
白叉を布で包み、街へ出る。午前の空気は麻と潮とパンの湯気が折り重なり、薄い甘さが舌の奥でほどける。合図は簡単だ。私が言う。
ネライア「ここにいる」
猫嵐が頷き、風で拍を配る。アガニオは低く拍を刻み、三拍目を半拍だけ遅らせる。━━“けほ”。
空気が小さく咳き、名の通り道が開く。
最初は台所。鍋の蒸気が天井で輪になり、吊りお玉がかすかに触れて鳴る。白叉は刺さずに向ける。刃の形だけをした問いを湯気へ浸し、【運用鍵】――発起(私)・拍持ち(アガニオ)・拡声(猫嵐)の三者一致を指先で確認する。
ネライア「【海潮同律】、通り道を濡らす」
アガニオ「【熾火律動】、低拍」
猫嵐「【風紋合奏】、閂は半拍遅らせて」
白叉『誰に返す?』
私「あなたたちに」
老い夫婦が互いの名を呼ぶ。━━“けほ”。
失われかけた呼名が湯気に混じって戻り、皿の上で蒸気が一度だけ強く立った。
次は舟室。麻ロープが指を刺し、樽は冷たい腹で船底に寝ている。若い水夫が弟の名を出しかけ、飲み込む。私たちは三者一致の合図を重ね、鍵を遅らせる場所を共有する。
ネライア「返す。あなたが先に呼ぶ」
水夫「……ここにいる、キオ」
名が空間に定着するまで半拍。そこでわざと鍵を遅らせる。━━“けほ”。
弟の声が木目から滲むように返った。泣き声は刃ではない。切らずに開く音だ。
昼下がり、屋台。果実酒の甘さと油の匂い、硬貨が木箱を叩く軽音。恋人同士は喧嘩の残滓を抱え、互いの名を避けて注文だけを投げ合っている。ここも順番の“一”。白叉は布越しに反響板へ触れ、三者一致の頷きを交わす。
猫嵐「笑わせる係、任せて」
彼が大げさに値切ると周囲が笑う。その拍に鍵を合わせる。━━“けほ”。
片方がつい相手の名を呼び、もう片方が頬の塩味を舐めてうなずく。笑いは渇きに効く。
最後は学び舎。黒板は乾いて粉っぽく、子どもたちは声の順番をまだ下手に守る。拒んだ者――名を口にするのを恐れる子に、私は白叉を向ける。刺さない。向けるだけ。
ネライア「返すのは私じゃない。君が選ぶ」
子「……ここにいる、ぼく」
白叉は一瞬、重さを忘れる。教室の空気が薄く湿り、机の木目が素直な音を返した。
燈司「誤配なし。手順通り。記録に残す」
リコイ「リズムは“生活”の速さで。無理は続かない」
夕刻の広場で私は膝に白叉を横たえ、深呼吸を数える。踏んだ場の数だけ、街の湿りは増え、交渉の机は外へ追いやられる。
狩真「刀は抜かずに済んでいる」
獅王「穴は埋まり方を覚えた。次は“根の薄化”だ」
アガニオが私の手に拍を渡す。灯りの温度はやさしく、刃ではない。
アガニオ「行ける。明日は“交渉そのもの”を殺さずに外す」
私はうなずく。返す順番の地図は描けた。次は、条件という名の毒に“無響”をかける番だ。




