第45話 名渡しの儀・改
王城大広間。磨かれた床に月光が薄い塩膜のように張り、三つの杯と三つの名札が並ぶ。第28話と同じ配置――ただし今日は先に門を立てる。沈黙は私の資産。資産の周りに最初からフタを置く。
私は壇の縁に掌を当て、薄膜を敷く。
ネライア「【海潮同律】、名の通り道を濡らす」
アガニオ「【熾火律動】、低拍。火は灯り、刃にしない」
猫嵐「【風紋合奏】、閂は半拍遅れ。鍵を先に差す」
四隅の影は柔らかく太り、格天井がゆっくり呼吸を始める。燈司は筆を走らせ、リコイは月の角度を測る。狩真は侵入する影の向きを“留め”、獅王は出入口の“穴”を探す。伴柱が場を支える。
女王エルフィラが一度目の名を呼ぶ。
エルフィラ「ネライア」
ネライア「ここに」
呼ばれることで、私は棚へ戻る。二度目。
エルフィラ「ネライア」
ネライア「……ここに」
間の湿りを確かめる。ここまでは“声”。三度目――私は沈黙で返す。沈黙は空ではない、私が所有する資産。同時に門がフタとして作動する。
三人「【交響蒸潮・第三式〈潮門封鍵〉】」
見えないところで無潮霧が儀式の“無”へ額をぶつけ、━━“けほ”。
霧は退き、沈黙は守られた。杯の水面は震えず、名の糸だけが強くなる。
女王は印章を置き、静かに言う。
エルフィラ「遅らせてきたのは、愛。たしかに負債でもあった。いまは、皆で返します」
私は小さく頷き、壇の縁へ細い潮の符を描いてすぐにぼかす。残滓でよい。読めなくていい。
燈司「儀、完了。沈黙は“他人の無”に奪われず、座は都市側のフタで保護」
リコイ「呼称層の時差的脱落、回復。返す場を“生活”へ移せる」
アガニオが拍をひとつ渡す。
アガニオ「次は町だ。台所、舟室、屋台、学び舎――順番を外へ持っていく」
猫嵐は私の肩へ風を置く。
猫嵐「合図は『ここにいる』の二唱。三拍目は半拍遅らせ、笑わせながら“咳”を誘う」
私は白叉を包み直し、柄越しに体温を確かめる。刃は今日も黙らない。『誰に返す?』
ネライア「呼び合う関係から。独占をほどき、共に持つ。――行こう」
大広間を出ると、城下の潮燈線は意図して一本ずれて並んでいた。等間隔は美しい。だが美は罠の布団になる。ずれは狙い、狙いは地図、地図は怖さの薄め方。私は喉の裏で小さく唱える。
ネライア「ここにいる」
言ったぶんだけ、どこかの台所で湯気が濃くなり、舟室のロープが素直に鳴り、屋台で誰かが誰かの名を正しく呼ぶ。明日、白叉は街へ出る。返す順番を、生活の拍で配るために。




