第37話 声を置いていく港
港の朝は、睡貝の砂糖めいた甘臭と、新しい麻の繊維で空気がざらついていた。舌の裏で塩が薄く解け、喉だけが慎重に濡れる。胸の奥で私は自分を呼ぶ――ネライア。返事は出る。濡れは保たれている。腰の白叉は布越しに問うてくる。『誰に返す?』
港湾長・豹鱗 水梳は今日も段取りが完璧だ。袖口の白粉は塩ではなく睡貝の粉。燈司は帳簿を斜めに掲げ、余白の“骨”を拾う癖のまま目を細めた。
燈司「余白が美しすぎる。意図を包む布の折り目だ」
猫嵐は波止場の風から匂いの層だけを剝ぎ取り、甘い地点へ風紋を置く。
猫嵐「匂いの地図、できた。北側に“配布”の気配がする」
アガニオは掌の火を灯りの温度へ落とし、影の輪郭だけを太らせる。
アガニオ「今日は高さだけ下げる。灯りは刃にしない」
ここは潮燈線(潮の拍を導く見えない線)の外縁。副座(座の“戻り口”として仕込まれた偽りの座)は、その等間隔から外れた杭の上に三つ散らされている。私は【潮譜】を薄く敷き、人が互いの名を呼び合う帯を港へ渡した。呼ばれた名は戻り、戻らない名は杭の影に沈む。そこへ小さな“穴”が開く。
無潮霧は交換条件が好きだ。だからこちらから条件は差し出さない。呼び合い・共有・記録で挟むのが今夜までの方針だ。
獅王「穴が三つ。ずらした灯が効いてる。隠れにくそうにしてる」
狩真は刃を抜かず、影だけを留め、逃げの向きを読む。
狩真「逃げ先は“港から内へ”。今日の獲物は紙だ」
紙――豹鱗の整いすぎた帳簿。その白は罪の布団だ。私は喉の内側でそっと唱える。
ネライア「ここにいる」━━“けほ”。
名が戻るとき、空気は一度だけ咳をする。白叉の柄がぬるくなった。返す準備は戦場ではなく生活の中で進める。返す昼を増やすために――夜に頼らない方法で。
私は【運用鍵】――発起(私)・拍持ち(アガニオ)・拡声(猫嵐)の三者一致――を喉の裏で反芻し、帯の湿りを保った。




