第33話 港湾長・豹鱗の微笑
港は朝の準備で忙しく、麻ロープの新しい繊維が鼻をくすぐる。魚籠は冷たく、板場の上には塩の粉が薄く舞っている。港湾長・豹鱗 水梳は、完璧な段取りで人と荷の流れを指揮していた。声はよく通り、視線は適度に柔らかい。
豹鱗「昨夜は大変だったそうだね。王都はあなた方のおかげで持ちこたえた」
褒め言葉は砂糖衣。噛めば奥歯に張り付く。私は頷き、彼の袖口の香を確かめる。新しい麻の匂いに、ごく微量の睡貝の甘さ。寝かせる匂いだ。
燈司は帳簿を受け取り、斜めから光を当てる。
燈司「余白が美しい。美しすぎる」
豹鱗は笑う。
豹鱗「整理整頓は港の命ですから」
笑顔は上等。上等すぎる笑顔は、罪を布に包む。私は潮膜を薄く張って、彼の足音をこちら側で二重取りする。足音は正しい。正しすぎる。正しさは嘘の偽装に向く。
猫嵐が高台から風で市声を撫で、異常な“静かさ”の斑を探す。狩真は桟橋の影を留め、獅王は杭の並びのずれを数え上げる。アガニオは火の灯りを最低限に落とし、影の輪郭を太らせる。
リコイは砂時計を手の中で返し、囁く。
リコイ「第十一夜の連続不審火。記録院は“延長線上にある”と速報した。港の火事は、同じ手の癖」
私は胸の奥で息を止める。延長線。線の上に立っているのは、誰。
ネライア「潮燈線のずれた一点。副座の位置と重なる場所は?」
燈司「ここ。桟橋の三本目と五本目の間、等間隔から外れた杭」
獅王「そこに穴がある。穴は嫌いだ」
私たちは段取りを決めた。潮譜を薄く敷き、呼び合う声を港全体に渡す。白叉は抜かない。返す対象がまだ特定できないから。私は豹鱗に向き直る。
ネライア「港の灯は今夜、少し配置を変える。等間隔は美しいけれど、罪がそこに隠れる」
豹鱗「ご指示の通りに」
返事が速い。速い返事は、時に“準備されている”。私は彼の袖口に視線を落とす。白い粉。塩ではない。睡貝。微量でも、匂いは嘘をつかない。
狩真が足音を半歩だけ速め、桟橋の端に立つ。
狩真「杭の焼印、見えるか」
猫嵐が風で薄い霧を捲り、印を露わにする。黒い三叉。
獅王「丁寧すぎる置き土産」
アガニオ「火は灯り。刃にしない。だから、今は焼かない」
リコイ「彼は今夜、消える。“優秀”に消える。残すのは、微笑と空白」
燈司「内通の様式は整った。港から城へ、城から祭へ、祭から座へ。美しい順序だ。美しすぎる順序だ」
私は豹鱗に一歩近づく。彼は微笑む。夜風が少しだけ睡貝の匂いを濃くする。
ネライア「あなたを疑いたくない」
豹鱗「私も、疑われたくない」
会話は交差し、交差点に穴が開く。穴の縁は磨かれている。落ちた者が怪我をしないように。優しさの形をした悪意ほど、始末が悪い。
その夜、彼は失踪した。私たちが“ずれた灯”を配置し終えた直後、桟橋の杭に黒い三叉の焼印。港の記録棚からは帳簿が一冊だけ抜かれ、抜かれた跡の余白が、やはり美しかった。
燈司「置き方が綺麗な犯罪は、必ず二度目を用意している。次は声を狙う」
猫嵐「耳を塞がれる番だね」
アガニオ「君の声が落ちたら、俺が呼ぶ。何度でも」
私は頷き、喉の裏を撫でた。今はまだ湿っている。けれど、狙われる。
ネライア「返す準備を続ける。呼び合う場を増やす。港の台所、船室、倉庫。名は集まる場所へ戻りたがる」
獅王「穴は埋める。埋めた上で、上を歩く」
狩真「刃は抜かない。抜く相手を選べ。選んだら、迷うな」
夜更け、港の灯が一つ、また一つと消えた。消し方は丁寧で、穴の輪郭だけが残る。私は白叉の柄を握り、胸の中で自分の名を呼ぶ。喉が応え、まだ濡れている。
――明日は違う。私は知っていた。声が出ない夜が来る。返す刃の質問に、答えを先延ばしにしたツケが、いよいよ喉に来る。けれど、それでも。
ネライア「ここにいる」
言えた。その一言が、港の暗闇のどこかに小さな灯を点した。灯りは刃ではない。だから、まだ、戦える。




