第32話 偽アガニオ、影の告白
扉を開けると、アガニオが二人いた。片方は掌に灯り、片方は掌に影。灯りの温度があるのは、こちら側。向こう側は灯りの形をしているのに、温度がない。
偽アガニオ「白い刃は危険だ。捨てろ」
本物が眉をひそめ、半歩だけ私の前に出る。
アガニオ「君の真似をするなら、まず誓いを言ってみろ。火は?」
偽アガニオ「火は刃だ」
本物の目が笑わず、私の喉が自然に震えた。違う、私たちは誓った。
ネライア「火は灯り。刃にしない」
偽の口元が一瞬だけ歪む。無潮霧は“言い換え”を得意とする。言葉の皮だけを借り、拍と温度を間違える。
猫嵐が風で廊下の埃を撫で、音の層の“抜け”を示した。
猫嵐「似姿は音を返せない。呼ばれた名のリズムを持ってないから」
狩真が影を押さえ、獅王は背後を封じる。燈司は気配の輪郭を紙へ写す。リコイの砂時計は黙って落ち続ける。皆、動きが最小で、美しい。私は白叉の布を解き、柄を指で確かめる。冷たい。冷たいのに、喉が少し濡れる。
偽アガニオ「捨てろ。君はそれで誰かの名を奪う。返すふりをして、選ぶふりをして」
胸が痛む。指摘は刃だが、刃の形が正しい時ほど痛い。私は頷く代わりに、呼吸を整えた。
ネライア「選ぶのは私の弱さ。だから手順にする。順番を公開にする。君の“影”にも、返すものがあるなら――それも順番に入れる」
偽の目が一瞬だけ揺れる。揺れは人間の合図だ。無潮霧はそこを真似できない。
アガニオが低く合図する。
アガニオ「【熾火律動】、低拍で合わせる。君は?」
ネライア「【海潮同律】。白叉は刺さない。返すだけ」
猫嵐「風は“閂”。門は閉じ気味で」
蒸気が輪になり、輪は門に変わる。私は白叉を偽の胸の前に掲げ、刺さずに“質問”を返した。
白叉『誰に返す?』
偽の口が言葉を探し、見つけられない。名を返すには、名を持っていなければならない。似姿は名の所有者ではない。借り物だ。
偽アガニオ「……温度を返せ」
その言葉だけは、本物に似ていた。私は白叉をわずかに傾け、灯りの温度を“通す”道を作った。偽の輪郭から黒が剥がれ、無潮霧が“咳”をして後退する。━━"咳"。音が戻る。
偽は崩れ、夜気に散った。残ったのは、手袋の内側に染み込んだ火薬の匂いだけ。本物が私の肩から力を抜かせる。
アガニオ「君は刺さなかった」
ネライア「刺したら、返せない。返したい」
アガニオ「嫉妬は灯り、疑心は刃。俺のは前者であってほしい」
彼の言い方はいつも少し乱暴で、倫理に芯にある。私は笑って、すぐやめる。笑いは渇きに効くけれど、今は彼の火に効きすぎる。
廊下の端、燈司が布片を掲げた。王都正規兵の徽章。丁寧に洗われすぎ、縁だけが塩で白む。
燈司「中からの手引きは確定。港の線、潮燈線、座のずれ。全部、同じ手の癖」
猫嵐「“優秀すぎる”って、嫌な褒め言葉だよね」
獅王「港で会おう。美しい余白は、獲物の隠し場所」
私は白叉を包み直し、胸の奥で自分の名を呼ぶ。喉が濡れ、灯の温度が整う。偽姿の消えた空気は、なぜか甘く、わずかに麻の匂いがした。港の匂い。次は、そこだ。




