第31話 音依亜とネライアの裁判
無響庫を出た夜は、音の輪郭がまだ戻りきらず、街の灯の周りに薄い余白が漂っていた。私は塔室の寝台で目を閉じ、白叉を額に当てる。冷たさは鋭いのに、痛くはない。呼吸は浅く、鼓動は浅瀬を打つ波みたいに頼りない。次の瞬間、床の石が裏返り、私は“法廷”に立っていた。
砂でできた廷床。壁は海、天井は月の白。傍聴席に誰もいないのに、誰かの気配が満ちている。原告は音依亜、被告はネライア。両方とも私だ。
――これは夢喰いの檻ではない。無響庫帰路の半醒夢、無潮霧に触れた名が自分を審問している。
気づいた時点で膝が少し笑った。笑う膝は、裁かれる側に向いている。
音依亜「普通でいる権利を返して。私は波に攫われて、こっちへ来ただけ」
声は昔の海辺の夕暮れの匂い――焼きとうもろこしの甘さと、日焼け止めの匂い。忘れていた指の感覚が戻る。
ネライア「普通でいたいままじゃ、ここで誰も守れない。私は選んだ。選ぶのは裏切りに似てるけど、裏切らないために選ぶ」
言葉にした瞬間、喉が乾く。乾きを、白叉の冷えがなだめる。
裁判官は海だ。判杖は月。
海「名を返す刃を得た者よ。返す対象を列挙せよ」
私は答えを用意していなかった。用意できる類いの問いじゃない。
ネライア「“呼び合う関係”から順に。独占の鎖をほどきやすいところから」
音依亜「それはあなたの都合」
ネライア「そう。だからこそ、都合を公開にする。手順にして皆で持つ」
燈司の筆がない場所でも、私は自分の言葉を記録する習慣を手放せない。記録は盾。盾は嘘を弾く。
証拠品として、白い布包みが卓上に置かれる。白叉。台座を離れても、刃は質問を続ける。
白叉『誰に返す?』
私は観念して、胸の内の棚を一段ずつ開けた。井戸端で名を落とした女、署名が蒸発した老人、呼ばれて振り向けなかった子、港で火事の名を飲み込んだ男。――そして、音依亜。
ネライア「先に返すのは、呼び合える人。次に、呼び合いを失った人。最後に、呼び合いを拒んだ人。その順で」
音依亜「私の順番は?」
ネライア「一番目。だって、あなたが呼んでくれた夜がなかったら、私はここにいない」
沈黙が落ちる。無潮霧が好む“他人の無”じゃない。私の沈黙。私はそれを門で囲う。
海「判決。併存。片方を沈めず、二つで一人を名乗れ。名を濫費することを禁ず」
判決文は砂の上に書かれ、すぐ波で消えた。消えても、残る。残った線は、私の喉の裏側に刻まれる。
退廷の合図。背を向けると、音依亜が呼んだ。
音依亜「――怖がるの、やめないで」
うなずく。怖さを正しく名付けると、人は少しだけ強くなる。白叉を額から離す。冷えが去り、灯の温度が戻る。扉の向こうに気配が立った。火の匂い、麻の匂い、夜の潮。
アガニオ「起きてる?」
ネライア「半分だけ」
彼は掌の灯りで室内の影を太らせる。灯りの温度。刃ではない。
アガニオ「君の沈黙、守れたか」
ネライア「守った。判決は併存。二人で一人」
アガニオ「じゃあ二人分、呼ぶよ。ネライア、そして――」
そのとき、廊下の向こうからもう一つ、似た匂いが近づいた。火の匂い。けれど、温度が足りない。扉が静かに叩かれる。灯りが二つ。胸の潮が逆流する。私は白叉の布包みを握り直した。呼び名の裁判は終わったばかりなのに、次は“似姿”への審問だ。




