第30話 無響庫、白い返答
無響庫へ降りる階段は、音を少しずつ削り取っていく。最初に消えるのは靴音、次に衣擦れ、最後に呼吸の端。匂いは残る。冷えた石灰、古い羊皮紙、遠い潮。耳が当てにできなくなると、私は肌で世界を読む。
燈司「ここは音を“吸う”のではなく、“返さない”。祈りも命令も、壁で終わる」
リコイ「だからこそ、玄叉は嫌う。返ってこない場所は、条件交渉ができないから」
玄叉の好物は交換条件だ。無音の部屋は交渉の机をひっくり返す。交渉嫌いの私たち向きだ。
入口の扉は重く、金具は指に冷たい。私は潮膜を薄く張り、触れた温度が自分へ返ってくるように道を作る。アガニオは小さな灯りを掌に載せる。刃ではない、灯りだけ。猫嵐は風を“回転”させ、埃の軌道で空間の凹凸を読む。狩真は刃の背で壁を撫で、獅王は先に影へ潜る。
ネライア「【海潮同律】、膜は面。音は紐。名は鍵」
言葉は届かないが、私の体に説明しておくのは大事だ。怖さは予習で薄まる。
庫内は白い。白は音の無さを誇っている。中央の台座に、布で巻かれた細いものが横たわっている。近づくと、喉が少し濡れた。何も聞こえないのに、名が戻る気配。
猫嵐「“返ってくる”って、こんなにやさしい味なんだ」
狩真「刀は返さない。刃はいつも奪う。これは刀じゃない」
獅王「獲物じゃない。お土産だ」
アガニオは灯りを低くし、台座の影を太らせる。太った影は、盗む者を嫌う。ここで盗むのは私たちではない。
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私は布に触れた。冷たい。布の中の柄は白く、表面に薄い潮紋。白叉。
リコイ「代償は“返答”。奪う刃は黙るが、返す刃は問う。“誰に返す?”」
私は喉が詰まりそうになる。返す対象は多すぎる。署名を失った人、名前を言えない子ども、私自身の中の音依亜。全部に返したい。全部に返せない。
アガニオ「選ぶのは今じゃない。選び方を決めよう」
燈司「手順にする。返す優先は“呼び合う関係”から。独占を解く順で」
猫嵐「つまり、笑い合えるところから」
狩真「泣き声の近くからでもいい」
獅王「順番は獲物の列じゃない。列は崩して並べ直す」
私は白叉の柄を額に当てる。喉が濡れ、胸の奥に小さな灯が点る。灯りは刃じゃない。
ネライア「聞こえる。『返して』じゃない、『返すね』の声」
白叉は軽い。その軽さは、刃なのに傷つけないという嘘みたいな約束を含んでいる。私は嘘が嫌いだ。けれど、この嘘は守るために必要だ。返す行為は、時に奪うことより痛い。
台座の縁で石が微かにずれた。気配。私は視線だけで合図する。狩真が一歩で影を斬る。斬られたのは人ではなく、霧の端。無潮霧はここでは濃くなれない。返らない場所は、彼らの呼吸と合わない。
燈司「持ち出す。庫の外で“返答”を始める」
アガニオ「白叉は刃じゃなく、楽器に近い。拍と合わせる必要がある」
猫嵐「三拍子で?」
ネライア「うん。火・風・水。門の螺旋の中で、名を返す。独占を解く」
帰りの階段は、音が少しずつ戻ってくる順番を教えてくれる。呼吸、衣擦れ、靴音。階段の最後で、私は自分の名を小さく呼ぶ。ネライア。喉が濡れ、白叉の柄が暖かくなる。
庫を出ると、夜は薄く潮の匂いを増していた。遠くで灯が三つ、わざと等間隔を外して並ぶ。副座の印。丁寧すぎる整頓の継ぎ目に罪が潜む。
ネライア「返す準備をする。まずは“呼び合う場”から。祭の輪でも、家の台所でも。奪い取られた名を奪い返すんじゃない。返す。返すために、呼ぶ」
アガニオ「君の声が折れたら、俺が呼ぶ」
猫嵐「僕も呼ぶ。風は拡声器」
狩真「俺は守る」
獅王「俺は穴を埋める」
私はうなずき、白叉を布で包み直す。選ぶのは後だ。選び方は、今決めた。
階段の上、月は薄く欠けて、欠け目が三叉に見えた。黒ではない。白だ。返すための三叉。私はその形をまぶたに焼き付け、次の夜──自分自身の裁判に臨む覚悟を積み上げる。呼び名の奥に隠した旧い自分と向き合うために。




