第29話 姉の名、遅延という愛
女王の私室は、潮騒が遠くで息をひそめる場所だった。厚い絨毯の端を持ち上げれば、床板の下に印章が眠る。触れると指が冷え、かすかな塩の粉が指腹に残る。
エルフィラ「先王女ネライア──彼女は、私の姉」
その名は、室内の空気よりも先に、私の胸へ落ちた。落ちて、波紋が広がり、過去と現在の輪郭が重なる。私は思わず喉を撫でる。名を呼ぶ声は、ここでは乾きに狙われる。
女王は机上の灯りを少し絞り、真珠粉をまぶした紙片を取り出した。筆致が姉のものだとわかるのは、線の端が必ず海の形で終わるからだ。
エルフィラ「姉は“遅延”で王都を救った。今日封じ、明日開け、また明日封じる。借金を先延ばしにして、子どもの寝息を守る人だった」
私はそれを責められない。責めることは、愛を知らないふりをすることだから。けれど、遅延は負債だ。利息は必ず増える。誰かがいつか、返す場所を選ばねばならない。
アガニオが窓辺で夜風の色を確かめる。朱の瞳は灯りの温度で、刃ではない。
アガニオ「返す場所を、今、選ぼう。俺たちで」
狩真は影から出てきて、短くうなずく。
狩真「刃の向きは俺が決める。裏切らない」
猫嵐は机に肘をつき、ふざけた声を少しだけ抑える。
猫嵐「風は責任を運ぶ。逃げ足じゃなくて、伝令で」
獅王は黙って私の髪飾りを整え、指先で“穴”の有無を確かめる。
リコイが砂時計を逆さにし、砂粒の落ちる音を小さく刻む。
リコイ「遅延は弱さではない。弱さに似た愛だ。渇きは愛を笑うが、触れると揺らぐ」
私は姉の名を心で一度だけ呼び、潮譜の端に小さく書いて、指でぼかす。読めなくていい。残ればいい。
ネライア「負債は私たちが返す。分割で。呼び合う声で利息を払う」
女王は目を閉じ、安堵と痛みの中間の息を吐く。
エルフィラ「お願い。あなた一人ではなく、皆で」
燈司が印章の縁をなぞり、金属の温度を読む。
燈司「王印は“意味の反転”を受けやすい。ここで押せば封印、別の座では開封。姉上はそれを知って、場所をずらしていた」
場所は今もずれる。港の長・豹鱗の帳簿に“白すぎる余白”があること、潮燈線上に副座があること。丁寧すぎる整頓は、たいてい罪の布団だ。
私は机上の杯を手に取り、冷えを舌で確かめる。甘さはない。ただ、清潔な水の匂い。
ネライア「遅延の終わり方を選ぶ。“一気に”じゃなく、“三人で”」
アガニオ「伴柱で」
猫嵐「三拍子で」
狩真「規律で」
獅王「作業で」
口にしていくと、怖さが言葉の枠に収まる。収まった怖さは、まだ怖いが、持てる。
夜更け、私室を出る。廊下の花は昨夜の無潮霧で一度しわみ、それでも今は薄く香る。花びらに指で水を一滴。花が音を吸って、“ありがとう”と言ったように見えた。
私は笑う。笑いは渇きに効く。涙は私に効く。両方を同時に持つには、手が二つじゃ足りない。だから、皆の手を借りる。
次に向かうのは、音が死ぬ場所。遅延で誤魔化せない、無音の真ん中。無響庫。そこに白い刃が眠っているという。返すための刃。奪うための刃ではなく。




