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波と炎は恋に落ちる-継承者ネライアの異世界予言録-  作者: NOVENG MUSiQ
第3章 名は刃、恋は蒸気――反転域の攻略

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第28話 名渡しの儀、沈黙の座に門を

 日が沈むと、王都は潮が引いたあとに残る貝殻のように静かになった。大広間の床は磨かれ、月光が薄い塩膜みたいに張りついて、踏めば靴底の温度だけが残る。女王の私室から運び出された古い文机には、三つの杯と三つの名札。薄い銀板に刻まれた刻印は、呼吸をするたび、遠い海鳴りのリズムで微かに震えた。

 エルフィラ「長らく遅延していた継承儀を、今夜に繰り上げる。玄叉(げんさ)の寄生先を限定するために」

 彼女の声はいつも通り柔らかい。だがその柔らかさは、飴細工みたいに折れやすい。私は胸の内側で自分を呼ぶ。ネライア。喉が濡れ、世界の棚に“私”が戻る。


 儀式の作法は古い。名を三度呼ばれる。最初は即答、二度目は間を置き、三度目は──沈黙で返す。沈黙は拒絶ではなく、判断だという。沈んでいる者を浮かせるのか、浮いている者を沈めるのか。女王はそれを代々、遅らせてきた。遅延は止血だが、血栓にもなる。今夜、止めずに流すと決めた。


 準備は私たちの側にもある。大広間の四隅に風の紋を描き、柱の陰に火の灯りを低く置く。私は壇の縁に手を当て、水の薄膜を張った。

 アガニオ「【熾火律動(おきびりつどう)】、低拍で。刃にしない灯りだけ」

 猫嵐「風は共鳴係。喧しくしないけど、うるさくする」

 燈司は壁際で短冊をめくり、記号を記録し、リコイは月の角度を確かめる。狩真は影を留め、獅王は入口の“穴”を探す。伴柱(ともばしら)。一本で支えず、三本で揺れて耐える約束。


 エルフィラが私の名を呼ぶ。

 エルフィラ「ネライア」

 ネライア「ここに」

 初回は簡単だ。私は呼ばれて世界に戻る。二度目は間を置く。呼ばれる自分の輪郭が、少しだけ水に滲む。

 エルフィラ「ネライア」

 ネライア「……ここに」

 その“少し”の間隙へ、城の外から運ばれてくる匂いがある。濡れていないのに湿った匂い。無潮霧(むちょうぎり)だ。私は潮膜をわずかに厚くし、猫嵐が風の拍を半拍遅らせ、アガニオが灯りの位置を低くずらす。門を、ここに。


 三度目。

 エルフィラ「ネライア」

 私は息を吸い、沈黙で返す。沈黙は空ではない。沈黙は私のもの。沈黙を狙って、黒い霧が壇の上へ伸びた。霧は音を嫌うのに、音の影を落とす。床石の上で影が三叉になる。

 ネライア「【海潮同律(みしおどうりつ)】」

 薄膜が沈黙の座を囲い、アガニオの律動が輪の外に“咳”を作る。猫嵐の風が“閂”になり、門は閉じられる。霧は額をぶつけ、━━"軋"。私は笑いそうになったが、笑いは後回しにした。笑うのは勝ったときだけではないが、今は勝ち途中だ。


 儀式は終わる。三つの杯に満たされた水は、一滴も失われていない。ただ、床の一枚だけがひんやりと冷たい。燈司がそこに指を当てる。

 燈司「副座。潮燈線上のずれた一点。座は一つだけじゃなかった」

 女王は目を伏せる。

 エルフィラ「遅らせることで、座を散らした。あなた一人に寄せないために」

 遅延は救いじゃない。けれど、愛の手つきだ。私は頷き、壇の縁に自分の名を指先で小さく描いて、すぐにぼかした。読めなくていい。残ればいい。


 儀式後の控え室。薄い海草茶の香り。私は杯を両手で包み、指の温度で自分を確かめる。

 アガニオ「君の沈黙は君のものだった。霧は“他人の無”を好む。今日は貸さなかった」

 猫嵐「次も貸さないようにしよう。門の“鍵”は三人持ちで」

 私はうなずき、潮譜(ちょうふ)の端に小さく「沈黙=資産」と書き加える。資産は使ってこそ資産だ。抱えたまま乾かすのがいちばんの浪費。


 夜更け、王城の外で灯が三つ、わずかにずれた間隔で並ぶのが見えた。ずれは狙い。狙いは地図。地図は怖さの薄め方。私は喉の湿りをもう一度確認し、次の呼び名を胸にしまい込む。次は──遅延の理由、つまり愛の刃の話だ。

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