第25話 名前が落ちる音
朝、王都は塩の粒みたいにざわめいていた。井戸端で女が自分の名を呼ぼうとして、舌の上の音節が砂糖菓子の表皮みたいに崩れた。署名台では墨だけが蒸発し、書き手の指の温度だけ紙に残る。私は胸の奥で自分を呼び直す――ネライア。喉が濡れ、世界の棚に“私”が戻ってくる感覚がある。
燈司は記録院の書板を斜めから眺め、黒曜石みたいな瞳で骨格を拾った。
燈司「署名が消えるのは文字じゃない、“名の結び目”が乾いている。昨夜の儀式の反動で、都市の呼称層に時差的脱落が走ったって診断に合う」
リコイ「玄叉は、準備運動としてテーブルを冷やす。料理はまだだが、舌は鈍る」
市場は匂いでいっぱいだ。揚げ油の甘さ、麻ロープの乾いた繊維、朝のパンの白い湯気。なのに人の声だけが心許ない。誰かが誰かを呼び損ね、呼び損ねた沈黙に小さなひびが入る。私は杖を立て、潮譜を薄く敷いた。
ネライア「“ここにいる”」
潮の膜が屋台から屋台へ渡り、魚の名、果物の名、人の名が少しずつ戻る。戻りながら、城壁の外から逆潮の匂い――濡れていないのに湿った匂い――が忍び込む。無潮霧は、すでに喉の形を覚え始めている。
アガニオが私の手を取る。掌の火炎紋は灯りの温度で、刃ではない。
アガニオ「君の声が途切れたら、俺が呼ぶ。だから今は、呼べるだけ呼べ」
猫嵐は人波の上を風で撫でながら片目をつむる。
猫嵐「次は“耳”を奪われる。名は口で出す前に、耳に置かれるからね」
狩真は黙って頷き、刀の鞘を軽く指で叩いた。━━"乾"。金属の素っ気ない返事。
獅王「穴を見つけたら埋める。穴は大抵、優秀さの影にある」
私は自分の名をもう一度だけ小さく飲み込み、潮譜を市場の端まで延ばした。呼び合う声が戻るたび、喉の塩味が和らぐ。恐怖はしょっぱい。しょっぱさを数えられるうちは、まだ戦える。




