第22話 三和音の門
谷は、城から半日の距離にある浅い傷のような地形だった。両岸は風に磨かれた頁で、指でなぞれば砂が小さく鳴る。谷底は冷たい藻の匂いがかすかにして、目に見えない水脈が真下を通っていると教えてくれる。私たちは縁へ伏せ、風の流れと音の死に方を待った。
最初に変化したのは声だ。鳥の警戒音が、音節の途中で切り落とされた紙みたいに消えた。次に、灯を吊るしていないのに影が濃くなり、谷底の一点に黒い柱が芽吹く。無潮霧。玄叉の呼気が、谷を座に選んだ合図。
アガニオ「二和音じゃ足りない。火と水だけだと、蒸気は輪にならない」
猫嵐が杖の先で空気をくすぐり、軽く舌を出す。
猫嵐「つまり、僕の“風”が要る。言われなくても割り込むけど」
狩真は短く息を吐き、鞘に添えた親指をわずかに上げた。
狩真「言うだけ言って、やることはやれ」
私は頷き、谷の呼吸へ自分の呼吸を合わせる。等式を立てる前に、現場の温度と湿度と拍を体に入れる。焦りは式を壊す。式が壊れれば、こちらが壊れる。
ネライア「――始める。閉じるための門を」
アガニオ「【熾火律動】、低拍から」
猫嵐「【風紋合奏】、上吹きで共鳴を誘う」
ネライア「【海潮同律】、膜を張る。名を通し、渇きを撥ねる」
三つの術式は重ならないように、しかし離れすぎないように、拍をずらして積んでいく。アガニオの火は刃にならず、谷の壁面へ柔らかな灯りとして散る。灯りは影の輪郭を太らせ、猫嵐の風がその輪郭をわずかに揺らす。揺れは霧の密度差に小さな皺をつくり、そこへ私の水膜が面として滑り込む。
蒸気はまず輪になり、輪は門へと変わる。門は開くより閉じるほうが難しい。開くのは欲望、閉じるのは判断。私たちは判断を選ぶ。
猫嵐「門の閂、入れるよ」
ネライア「閂は音で作る。――三拍子を刻む」
アガニオが掌の火炎紋で低音を、猫嵐が風で中音を、私は水で高音を受け持つ。三和音は谷に“ここにいる”を返し、無潮霧はそのしつこさを嫌がって後退する。黒柱が薄くなった。
しかし、柱の根は残る。渇きは執念深い。私は杖を核の上に差し入れ、鼓動を思い出させる。干からびた心臓に、拍をひとつ与える。
ネライア「覚えて。あなたは打つもの」
石は最初、嘲るように沈黙した。嘲りに屈する前に、私は自分の名を胸の内で呼ぶ。名を呼ぶ声は、私を世界へ結びつける紐。紐を通す穴は、まだ塞がれていない。
ネライア「ネライア」
喉が濡れる。三和音がわずかに高まり、核の石に微かな拍が戻る。ひびが一本、石の表面を走り、そこから霧が逆流していく。門は“閉じる”ことに成功した。穴は塞がり、谷の空気が咳をした。咳――戻る音の最初の合図。
霧が割れた一瞬の隙間に、黒い影が別の座へ逃げるのを見た。追える距離。だが私は追わない。門を閉じる儀式は後処理までが儀式だ。
獅王「逃げ跡は残った。後で剥がす」
燈司がすでに帳面に、風の向きと霧の密度差を書き留めている。
燈司「門のかけ方、三拍目を半拍遅らせると、霧の“咳”が大きい。記録しておく」
アガニオが私の肩に手を置く。熱は灯りの温度で、刃ではない。
アガニオ「輪が門になった。門で閉じられた。次は、根だ」
根。王都の地下でうねる黒の槍座。エルフィラの印章が意味を反転させられた場所。私たちは視線を合わせ、頷いた。
ネライア「人柱じゃなく、私たちは伴柱になる。三本で支え、誰も燃え尽きさせない」
谷から上がる風は、さっきより湿っていた。音が戻る。名も、戻る。私は喉の湿りを確認し、次の扉へ心を向けた。ここからは、約束の手順だ。




