第21話 豹牙、影番の覚悟
夜の回廊は長い脈拍だった。灯りは等間隔に置かれ、床石は湿りを帯び、壁には香の残り香が薄く漂う。音は慎重に歩けば居場所を隠してくれるが、慎重すぎると無潮に似る。そんな場所で、私たちは内通符の手がかりを追っていた。
角を曲がったとき、笛の音が一瞬だけ擦れ、すぐに乾いた。仮面の刺客が二。片方は短剣、片方は細い管。管から漏れる息が花床の蕾を萎ませる。玄叉の呼気だ。
燈司が前に出た。彼の背は本棚の背表紙みたいにまっすぐで、文字が並ぶ余地がある。
燈司「俺が囮だ。お前らは“音”を残せ」
ネライア「音?」
燈司「渇きは音を嫌う。お前の波に、俺の“手順”を混ぜろ」
彼は紙片を宙へ散らし、私は水でそれを受けて面にした。薄い紙は音符の形に切られている。
ネライア「【潮譜】」
水面に旋律が走る。名を保護する譜面。足音と心音を意図的に誇張し、廊下じゅうに“ここにいる”を響かせる。渇きは、このしつこい反響を嫌う。刺客の足が躓き、合図の笛が空気に呑まれて音程を失った。
狩真が一閃。刃は刺客の影だけを裂き、実体から注意を奪う。猫嵐の風が灯を揺らす。揺れは影をずらす。影がずれれば、暗殺者の精度は落ちる。
アガニオの火は“刃”にならない。回廊の壁へ灯りとして宿り、影の輪郭を太らせる。太った輪郭は、切りやすい。
獅王は背中に回り、短い笑いをひとつ落として、刺客の手から管を盗む。盗ったものは投げ捨てない。証拠は後で役に立つからだ。
刺客は退き際に笛を吹いた。空気が一瞬で乾き、回廊の花が紙みたいにしわを寄せる。私は潮膜を重ね、花に薄い水を与えた。花が音を吸って、“ありがとう”と言ったように見えた。花に礼を言われるほど、人は救われる。
斬り結びの間、燈司の肩が浅く裂かれ、制服の布が赤を吸う。彼は前を向いたまま笑った。
燈司「生きてる、という証拠。俺はまだ記録できる」
笑いは作り物だ。だが作り物の笑いは、背中の味方を安心させるための正しい偽物だ。私は喉の奥で自分の名を呼び、湿りを確かめる。
ネライア「ここにいる。ここにいる」
潮譜の反響に、私の声が重なる。渇きは退いた。退いた跡に、冷たい空気だけが残る。空気の冷たさは、恐怖の名残ではなく、余白だ。余白があれば、記録は読める。
刺客を捕縛しようとして、狩真が首を振った。
狩真「逃げるべきルートを、最短で用意してある。内側の手引きだ」
燈司が拾った短い布切れに、王都正規兵の徽章が縫い付けられていた。乾いた銀。海の塩より、裏切りのほうがよく錆びる。
猫嵐「“誰”の顔をしてても、“どこ”に立ってるかで判断しよう。顔は偽れるけど、立ち位置は長く偽れない」
獅王「位置は剥がす。剥がして、裏も表も同じにする」
言葉は乱暴だが、乱暴の裏に手順がある。私は潮譜を静かに解き、回廊の花へ最後の一滴を落とした。花びらがしっとりと光る。音は戻っている。戻った音に、私は次の段取りを重ねる。
燈司が帳面を開き、素早く走り書きする。
燈司「“無潮霧”の再発は谷がいい。風が溜まり、霧が座を得る。黒い柱の分身が現れたら、二和音では足りない。三和音を使う」
アガニオ「言われなくても、風を呼ぶ。火と水だけだと、蒸気は輪にならない」
私はうなずいた。
ネライア「門を作る。閉じるための門。開けるための門じゃない」
猫嵐が杖をくるくる回し、軽口で緊張を薄める。
猫嵐「じゃ、僕は大黒柱。責任重大って言われるの好き」
狩真が短く笑い、すぐ無表情に戻る。笑いは稀少。だから価値がある。
私たちは回廊を抜け、夜気の濃い外気に胸を開いた。音は、まだここにある。名も、まだ。
私は声に出さずに言う。疑うのは毒。でも、毒を見ないふりはもっと毒。
毒の扱い方は、手順に似る。三和音の門――その手順を完成させる。




