第19話 砂上の契約書
潮騒の聞こえない海岸は、海でありながら砂漠の顔をしていた。風は吹くのに、波は鳴らない。音がどこかに隠れている。隠れんぼの相手が玄叉だと思うと、私は胸の奥の砂時計をひっくり返したくなる。
リコイが白砂へ指で線を引いた。砂の粒は月光を拾って、紙より冷たい紙になった。彼が書いたのは“もし~ならば”の連なり――交換条件の文法だ。
リコイ「渇きは交換が好きだ。君の波が世界の端で蒸発する代わりに、城の中心は救われる。あるいは、火の紋が燃え尽きる代わりに、君の名は残る」
文の主語はすべて“渇き”。渇きが条件を提示し、人がうなずく。うなずきは礼儀かもしれないが、首を差し出す角度でもある。
アガニオが靴裏で線を踏み、文字を崩した。砂がざり、と音を立てて元の砂に戻る。
アガニオ「取引相手に礼儀は不要だ。条件は奴の言葉だろ。俺の火は俺が決める」
彼の物言いは乱暴に聞こえるのに、倫理の芯がやわらかく光っている。私はその光を頼りに、砂へ膝をついた。砂は冷たく、手のひらの熱を盗む。その盗難を許すかどうかは、私の選択だ。
穴の位置は、燈司がもう地図に落としている。潮燈祭で“消えた”灯――世界から切り取られた夜の断片。彼は小さな記号で穴を挟み撃ちにするように記していた。
燈司「穴は縁が重要だ。縁はすぐ磨耗する。今日見た縁は、明日には少し崩れている。記録し続ければ、穴の“成長方向”が読める」
読む。読むことは、戦う前段だ。読むのを怠ける戦いは、たいてい体力だけを消費して終わる。私は紙の匂いがしないこの海岸で、紙より厚い決心を探す。
ネライア「――条件じゃない。私たちの側に、約束が要る」
口に出すと、喉が濡れた。渇きに向けて、湿度で殴り返すみたいな感覚。
リコイ「約束は弱い。だから、渇きはそれを笑う。けれど、弱さに触れると渇きは揺らぐ」
弱さ。私は弱さを嫌っていた。けれど、名を呼ばれる瞬間の私が強いかと問われれば、違う。名を呼ばれる私は、居場所に縫い付けられた“弱い存在”だ。だから、守る。
私は砂へ三つの印を刻んだ。
ひとつ、名を売らない。勝利のために誰かの名前を、“消す”側の計算に載せない。
ふたつ、火は灯り。刃にしない。人を照らす用途を最優先にする。
みっつ、風を借りる。二つの和音では足りない。三つで“門”をつくる。
猫嵐がその三つの印の上に、いたずら描きのような円を付け足した。
猫嵐「“門”の予告編だね。予告編はネタバレじゃない。来るものの形に身構えさせる礼儀」
狩真は黙って、砂の端を刀身で撫でた。線は消えない。消えない線は、約束に似ている。
獅王「穴は嫌いだ。獲物が逃げるから。だから埋める。俺は作業が好きだ」
作業。そう、戦いは作業の積み重ねでいい。英雄譚に酔って足を滑らせるより、泥の上で手順を守るほうが、誰かの名を守れる。
アガニオ「約束、いいじゃないか。俺にも一本、貸してくれ」
ネライア「貸すんじゃない。結ぶんだよ」
私は三本目の線に自分の名を小さく書き、すぐに掌でぼかした。約束は読める必要はない。残る必要がある。
潮風が、風であることを思い出したかのように吹き、砂上の文字の角を丸めた。約束は消えかける。消えかけるから、繰り返す。
リコイ「次に向かうべき場所は、砂の下にある。蒸気の地図が示す最奥――渇海廟。王権の印が“意味を反転”させられた場所」
王権の印。エルフィラの優しさが刃に変わりうることを、私は理解している。理解しても、彼女の手は温かい。矛盾は、理解の手すり。私はその手すりに体重を預け、立ち上がった。
ネライア「行こう。穴の根を見に」
夜の海は黙り、砂は私たちの足音を記録した。音は、まだここにある。記録も、まだ。約束も――まだ、ここに。