第18話 潮燈祭、光と影の等式
潮燈祭の夜。港から城門まで、青い灯が脈になって伸び、街は海底が逆さに浮いたみたいに光った。果実酒の甘さと新しいロープの麻の匂いが混じり、人の声は塩に溶けて丸くなる。私は巡回を装いながら、灯の拍に呼吸を合わせる。アガニオは屋台の火を見張り、猫嵐は風で灯りを増幅し、獅王は人波の陰を泳ぐ。狩真は要所の影を留め、燈司は記録の眼で祭を透視する。
灯は、街の心臓だ。心臓に手を当てているうちは、人は目を閉じられる。私は杖を軽く握り、胸の名を確認する。湿っている。まだ、ここにある。
合図はなかった。霧が落ちた。
灯の火が吸われる。声は砂に埋もれ、楽の調子は弦を失う。世界が一拍、無音へ反転する。
ネライア「【潮位反転】!」
水は上へ、霧は下へ。等式を一瞬だけ逆さにし、灯の上に水の薄膜を架ける。霧の密度は落ち、視界に裂け目が生じた――が、裂け目の向こうから伸びた黒い影が、灯のいくつかを消去した。炎ではない。存在ごと、灯が穴になる。
リコイ「無潮霧。玄叉の呼気。霧の中心には、音の影だけが落ちている」
音の影。私はその言葉の矛盾にすがる。矛盾は、理解の手すりになる。私は杖を掲げ、アガニオが火の拍を合わせる。蒸気が灯の代役になり、人の輪郭を濡らす。
仮面の将が広場の中央に立つ。口上は丁寧だが、耳に残らない。残らない言葉ほど危険なものはない。私は聞くのをやめ、見る。彼の足元に三叉の影が濃い。影は灯を食べ、灯は悲鳴をあげずに失せる。
猫嵐「風を上げる。君は膜で“声”を拾って」
ネライア「任せて」
潮膜を広場全体に張り、失われかけた名を拾い上げる。親が子を呼ぶ声、恋人が恋人を呼ぶ声、迷子が自分を呼ぶ声。名を呼ぶ声は、渇きの前で最後まで粘る。私はその粘りに自分の声を足す。
ネライア「ここにいる。ここにいる」
単純な言葉ほど、帰巣本能を持つ。蒸気の輪がいくつも重なり、灯の代わりに白い灯りが生まれる。仮面の将は一歩分だけ退いた。退いた足跡に穴が残る。世界の削除痕。私は喉に鉄の味を感じ、嫌悪と怒りで胃が熱くなる。
獅王が人混みを裂いて将へ迫る。影の刃が仮面の縁を掠め、狩真の踏み込みがその逃げを封じる。だが将は逃げない。逃げずに霧を濃くする。灯はさらに二つ、三つと穴になる。
アガニオ「俺の火は灯り、君の水は声。合わせる!」
二人「【交響蒸潮】!」
蒸気は輪になり、輪は門になり、門は遮断になる。無潮霧の呼気が一瞬だけ外へ吐き出され、広場の空気が“咳”をした。咳と同時に音が戻る。戻った音は悲鳴だけでなく、笑いも叱責も、売り手の呼び込みも。
それでも――戻らない灯があった。二つ、三つ。そこだけ夜が立ったまま残る。誰かの名も、そこへ少し吸われた気がして、私は胸の奥を掻きむしりたくなる。
ネライア「……ごめん」
誰に向けてかも定かでない謝罪は、潮に薄まって消えた。
仮面の将は、整った所作で一礼し、霧に歩いて消えた。追うことはできた。けれど、私は追わなかった。追わないことも守りのうち、と体が判断した。
燈司「被害と“穴”の位置、すべて記録する。後で必ず役に立つ」
猫嵐「立たせるのは僕らだよ」
リコイ「渇きは“交換条件”が好きだ。きっと明日、砂の上で話すことになる」
彼の言葉は、次の場面を指定する脚注のようで、私はうなずく。潮風が少しだけ湿りを取り戻し、人の声が夜の形に戻る。
私は喉を撫でる。湿っている。まだ、ここにある。けれど、穴は消えない。穴がある場所を知ることが、今夜の勝ちの最大値だ。
アガニオ「帰ろう。火は見張る。君は声を休めろ」
ネライア「……うん。明日は砂の上で、条件じゃなく約束を決めよう」
約束は弱い。けれど、弱さに触れると渇きは揺らぐ。私は灯の消えた地点をもう一度だけ見つめ、胸の中で自分の名を呼び、音が返るのを確かめてから、皆とともに夜を閉じた。




