第17話 錬造所の夜、渇きの芽
“乾鎔の錬造所”は、地図の線が三度重なる穴のさらに奥にあった。入口は石炭の倉庫を装い、壁は煤で黒く、床の砂は塩で白かった。匂いは焦げた柑橘に似て、鼻腔の奥で小さく刺す。飢えの匂いだ、と直感した。
リコイが掌を壁に当てる。壁は音を返さない。返さない壁は祈りを飲み込む。
リコイ「ここは“祈り”でなく“飢え”を捧げる場所。玄叉の苗床」
灯を絞ったアガニオの火は、刃ではなく灯りとしてだけ息をする。私は潮膜で足音を折り返し、猫嵐は風で匂いを拡散し、獅王は影の中の影に紛れる。狩真は刃を抜かない。抜かないことも剣の仕事だ。
最奥の炉は乾いたまま燃えていた。火床には油も薪もない。黒い砂だけが蠢き、砂の呼吸が火を保つ。炉の前に、仮面の鍛冶師が座している。小刻みに揺れる手の上で黒い叉の雛形が磨かれていた。
ネライア「やめて」
私の声は自分でも驚くほど小さかったのに、鍛冶師は顔を上げた。仮面の内側で、瞳だけが若い。年齢は、私と変わらないか、もっと下だ。
鍛冶師「渇きは平等。満ち足りた顔を見るのが、辛いだけだ」
平等。言葉は美しいが、使い手が飢えているときほど凶器になる。私は杖を握り直し、アガニオの視線を探す。視線はすでにこちらにあり、頷きが合図になる。
二人「【交響蒸潮】」
私の水が膜を伸ばし、アガニオの火が拍を刻む。蒸気は渦となり、渦は輪になる。輪の内側で仮面が剝がれ、雛形の表面に走る亀裂が音を立て――音が戻る。炉の呼吸が一瞬だけ乱れ、乾いた火が咳き込んだ。
鍛冶師は笑った。羨望が混じった諦めの笑いだった。
鍛冶師「平等は、芸術じゃない。ただの減算だ。君たちの蒸気は加法だ。……だから、うらやましい」
言葉の最後に、彼は身を炉へ投じた。炎ではなく砂が彼を抱いた。焼ける匂いはせず、ただ空気が乾く。残った雛形は粉になり、喉の奥を削ぐ。咳が出ない。咳の音が、無潮に吸われていく。
ネライア「……やめさせられなかった」
アガニオ「止められたかもしれないし、止められなかったかもしれない。記録しよう。次に同じ穴を見つけたとき、速く閉じられるように」
燈司が頷き、卓上帳面に短い線を幾つも並べる。線は音符に見えた。ここで音は死んだのに、紙の上ではまだ歌える。
退路で、背後に微かな気配。狩真が振り返りもせず、一歩で斬る。落ちたものは人ではなく布だと一瞬思ったが、床に転がったのは王都正規兵の徽章だった。
狩真「内通は確定だ」
猫嵐「“誰”かは、まだ楽しい謎だね」
獅王「謎は剥がすもんだろ。剥がす前から愛でる趣味はない」
私は徽章を拾い上げ、冷たさの質を覚える。冷えるのは金属のせいか、心のせいか。裏は裏だけで存在しない。必ず表を侵す。燈司の言葉が、今は骨に刺さる。
地上に出ると、夜はもう朝の手前だった。空の色はまだ名付けられておらず、風は塩と煤を均等に運んでくる。私は喉を撫でる。名はまだ湿っている。湿りを保つのは、呼ばれるためだけじゃない。呼ぶためでもあるのだと、やっと思い至る。
ネライア「……行こう。次は、灯りのほうを守る番」
アガニオ「祭だ。火は踊るが、刃にはしない」
祭。文字の並びだけで胸が軽くなるのに、同時に重くなる。軽さは人の笑いで、重さは責任だ。私は二つを同時に抱え、歩幅を合わせた。




