第15話 塩の峠で、裏と表が交差する
補給路“塩の峠”へ向かう。夜明け前、空気は鉄の裏面みたいに冷たく、舌に触れると薄い血の味がにじむ。同行は狩真、獅王、猫嵐、アガニオ、燈司、そして私。六人いれば会話は増えるはずなのに、山道は足音と呼吸の算術だけで満たされている。
峠の茶屋に、黒布で覆われた荷駄列。車輪には海藻繊維が巻かれ、道の轍に湿り気が残る。積み荷の箱からただよう甘い匂い――眠りの境界を甘くする貝の粉だ、と鼻腔が先に答えを出す。睡貝。夢を浅瀬に固定する麻薬。昼の労働者を夜の人質に変える最短の方法。
猫嵐が風の紋を指先で弾き、囁く。
猫嵐「匂いは僕が散らす。君は、水で音を殺せる?」
ネライア「やれる。【潮膜】で行く」
膜を張るのは防御の比喩だが、実体は“音の折り返し”。足音や金具の触れ合いが外へ漏れず、こちら側だけに跳ね返る。こちらだけがこちらの存在を知り、向こうは“無”を受け取る。
作戦は滑らかに始まり、滑らかに躓いた。峠の祠に先客がいたのだ。黒い面紗の祈祷女が、石に落ちた三叉の影へ額を擦りつけている。
祈祷女「渇きは救い。水は誘惑。火は嘘」
言葉は教義というより、中毒の言い訳だ。獅王が音もなく背を取り、腕を捉えるが、女は笑い、身を捩って崖へ飛んだ。落下の音は潮膜に遮られてほとんど届かず、私の胸だけが深く沈む。
祈祷の台座に残された数珠。玉のひとつひとつに、ごく小さな刻印。燈司が手袋越しに撫で、目を細める。
燈司「内通符だ。祈祷を口実に、王都の誰かと“合図”を回している印」
狩真は一歩進み、祠の奥の影を斬った。乾いた音。倒れた影は“黒衣”ではなく、王都正規兵の外套だった。
狩真「汚れたのは布か、人か」
猫嵐「布は洗えるけど、人は面倒だね」
アガニオは黙って回廊の灯を絞り、火を“灯り”としてだけ使う温度へ落とす。誰もが自分の役を知っていて、誰もが他人の役に手を出さない。戦術は美しいのに、気持ちは美しくない。胸の内では疑心が音もなく増殖し、潮膜では遮れない。
茶屋の奥、荷駄の蓋を開けると、睡貝の粉末が小袋ごときっちり並んでいた。丁寧すぎる整理は丁寧すぎる犯罪と同じ匂いがする。私は指で袋をひとつ割り、鼻先で嗅ぐ。潮の底に沈めた果実の甘さ。数分で夢の浅瀬に膝が立たなくなるだろう。
ネライア「これを港へ撒けば、船は岸で眠る。市場は朝を忘れる」
燈司「そして、城は昼に孤立する。戦いは夜だけ起きない」
獅王が崖下を覗き込み、口の端を歪める。
獅王「祈祷女は死んでない。木の根にぶら下がってる。助けるべき?」
ネライア「助けたい。でも――」
でも、の後ろに、“内通”の二文字が棘のように生える。助けることと、利用されることは隣り合っている。私は躊躇い、躊躇った自分に嫌悪する。
アガニオ「助ける。助けた上で、記録する。選び方で悩むより、選んだ後の責任で悩め」
彼の言い方は時々乱暴だが、乱暴の仮面の下で倫理がよく磨かれている。私は頷き、潮膜を下へ延ばす。水の膜は揺り籠になり、女を枝から受け取って、崖上まで運んだ。
祈祷女は目を開けた。信仰の光はなく、疲れた人間の濁りだけがある。
祈祷女「あなたたちは、無潮の前で濡れていられると思う?」
答えは出ない。濡れているかどうかは、いつだって“次の瞬間”で覆る。
燈司「彼女の肌の塩分、睡貝の摂取痕、数珠の磨耗。全部、記録に残す。裏は裏だけで存在しない。必ず表を侵す」
私たちは祠を離れ、峠を下り始めた。朝の光が谷底から上がってくる。冷たい空気は少し柔らぎ、血の味は消える。代わりに、舌の上へ疑心の金属味が残る。
視線が私の顔を素通りして、背後で交錯する気配。私は歩調を乱さず、胸の中だけで小さく呟く。
ネライア「疑うのは毒。でも、毒を見ないふりはもっと毒」
解毒法は、選び続けること。選ぶたびに、名で自分を呼び戻すこと。
峠の風は乾いている。それでも私は、喉の奥で波を作る。自分の名を、まだ乾かさないために。




