第13話 黒い槍の名、蒸気に刻む
城の蒸気工房は、鉄の舌で潮を舐める場所だ。配管の継ぎ目から白い息が絶え間なく漏れ、壁一面の圧力計は円い瞳をずらりと揃え、こちらの鼓動を盗聴している。錆の甘さと海塩の辛さが同居する空気のなか、私は真珠球の映像を銅板へ写した“反射写本”を並べ、学士たちと古字を照合していた。銅の肌理は冷たいのに、指先でなぞると刻印だけが微かに体温を帯びて応じる。浮かび上がったのは、二文字の刃――玄叉。
乾いた海を穿つための槍。波や炎を鎮めるのではなく、そもそも“液体という概念”を否定する神具。名前はどの武器より静かで、どの暴力より無慈悲だ。玄叉――海底で見た“黒い三叉”に他ならない、と肋骨の裏で確信が鳴る。その確信が怖い。怖いのに、名を得た途端に物事が輪郭を持つ心地よさに、私は少しだけ救われてもいた。
エルフィラが工房の蒸気を割って歩み出る。真珠粉のように白い指先で銅板を押さえ、声を落とす。
エルフィラ「玄叉は無潮を呼ぶ。あなたの水も、アガニオの火も、そこでは滑る」
その言葉の端に、砂が一粒混じっている――そんな異物感が喉の奥に引っかかる。女王はいつも柔らかい。けれど、柔らかさは刃になりうる。私は違和を呑み込み、目だけで頷いた。
工房には見慣れぬ二人がいた。ひとりは王室文庫の索隠官、豹牙燈司。豹の字を姓に抱く稀姓らしく、足音の軽さは猫科を思わせる。無駄のない身振りで書冊を扱い、黒曜石の瞳に文字の骨格だけを選り分ける集中の光がある。
もう一人は砂漠修院の予言師、Lykoi・Vates。夜目の利く流謫の巫で、透きとおる声は乾いた井戸へ一滴を落としたときの音に似ている。
リコイ「玄叉は、所有されるより寄生する。持ち主が死んでも“渇き”は繁殖する」
燈司「記録では、玄叉は器を選ぶ。波の継承者に近い器ほど、深く傷つく」
アガニオが私を見る。その朱の瞳は炉の芯の色で、熱を渡す準備がいつでも出来ている色だ。
アガニオ「なら先に俺たちが【交響蒸潮】を仕上げて、“渇き”の呼吸を止めよう」
交響――火と水で蒸気を編み、圧と音で場を律する共同術式。名付けは壮大だが、実体はまだ試作段階の寄せ木細工。私は胸の奥で、泡立つ二つの欲を抱え直す。“普通でいたい”と“役に立ちたい”。両立しないくせに、どちらも本音だ。
私は頷いた。同意は決意と違う。けれど、背中のほうで小さな波が立つ。選ぶことから逃げないと決めた波だ。
燈司は書見台に銅板を固定し、急ごしらえの擦筆で縁に符牒を記す。
燈司「古詩の異本にも“黒い三叉”は出る。比喩の層を剥ぐと、“音の剥奪”に言い換えられる」
音の剥奪。私は第十二夜、真珠球の映像が終わる瞬間に走った“静寂の刃”を思い出す。雷鳴でも火炎でもなく、音そのものが一拍、世界から抜け落ちた。呼吸の拍子がずれ、心臓が己のリズムを探し直す、あの不快な沈黙。
リコイ「名を持つものは、名を呼ぶ声で世界に結びついている。渇きは最初にそこを乾かす」
エルフィラ「……だから私は、遅らせた」
女王の独白めいた言葉は、蒸気の白に紛れてすぐ形を失う。“封じる”のではなく“遅らせる”。優しさと先送りは紙一重だ。私は彼女を責めない。責めないのに、胸が塩辛くなる。
アガニオが手袋を外す。焼けた掌に刻まれた火炎紋が、鼓動に合わせてわずかに明滅する。
アガニオ「玄叉が音を奪うなら、俺たちは音で抗う。蒸気は、音を運ぶ。君の水で“膜”を張り、俺の火で“拍”を刻む。そこへ風を足せば――門になる」
門。まだ見ぬ形の比喩に、私は救われる。出口の名があるだけで、暗い廊下も廊下に戻る。
ネライア「やろう。言葉を失う前に、言葉で準備する」
口にした瞬間、喉が湿る。私の名は、まだここにある。




