第1話 溺れて、目覚めた場所
音依亜――3文字で足りてしまうほど平凡な私の人生は、その日、波に呑まれて終わるはずだった。
八月の海は、真昼の太陽をそのまま抱えこんだように眩しかった。友人の嬌声、遠くで鳴るジェットスキーのエンジン、揚げ物の匂い。すべてが日常の延長線。それでも私は胸のどこかで「自分はここに溶け込めていない」と薄く理解していた。
そんな感傷を攫うように、不意の高波が押し寄せた。視界が塩水で白く潰れ、肺の奥まで冷たさが侵入する――はずだった。けれど、次に瞼を開いた瞬間、私は息をしていた。
水は澄みきり、深海の静寂を湛えながらも光に満ちていた。己の髪がふわりと揺れるのが見える。怖い、けれど美しい。
“生きている”。むしろ“生まれ直した”という確信が胸に灯る。
やがて身体が水面を割り、蒼穹が広がった。群青よりさらに深い色合い、けれど濁りはない。潮風は甘く、アルトのような低い笛の音が遠くに聞こえる。
「此処は――」
問いは最後まで形を成さなかった。奇妙な甲冑をまとう兵士たちが浜辺を巡回しており、私を“海から這い出た異形”と勘違いしたらしい。槍の穂先が月光のように冷たく光り、足が竦む。
そのとき、白銀の輝きを纏った女性が現れた。
「退きなさい。彼女は海に選ばれし者」
女王エルフィラ。絹を裂くような細い声でありながら、周囲の潮騒より大きかった。
彼女は私の濡れた頬に触れ、真珠色の瞳を細める。
「あなたには……海が囁いている。――名は?」
名乗ろうとして、言葉が喉で絡まった。自分の“旧い名前”が、この世界には似合わないと本能が告げていた。
そのとき、遥かな波音に紛れ、誰かがネライアと囁いた。幼い頃から夢の底で何度も聞いた響き。
「――ネライア」
私がそう告げると、女王は微笑み、兵士たちは槍を下ろした。私は異世界に受け入れられた。いや、受け入れられてしまったのだ。