2.婚約解消
「ミラ、婚約を解消して欲しい」
私は先程殿下に言われた言葉を反芻していた。
ここはアクエルダ国の王城にある庭。美しく咲く花々に囲まれた四阿に私以外誰の姿もない。向かい側に用意されたティーカップに注がれたお茶は、誰も口をつける事なく冷めていくばかりだ。
私は婚約相手から、婚約解消を申し込まれたのだった。
殿下が病床から復活して一月がたった。今ではあの出来事が嘘のように彼は健康そのもので、何事もなかったかのように過ごしている。
そうして久しぶりにお茶をする時間が設けられた。
「二人だけで話したいんだ。みんな下がらせてほしい」
殿下の願いを聞き入れ人払いされた庭には、他の人影はない。ティーセットを用意した後メイドもいなくなると、二人きりとなる。きっと離れたところから見守られてはいるだろうが、その距離では私たちの会話の内容は聞き取れないだろう。
「こうしてゆっくり話すのは久しぶりだね、ミラ。元気だったかい」
「ええ。殿下も、ご健勝で何よりです」
「あんなことがあったのが、まるで夢だったかのように思えるよ」
彼の口からこうして、あの病気のことを話されるのは初めてのことだった。
「ミラも、ずっと側にいてくれたんだろう。母上に聞いたよ。ありがとう」
「はい。こうして無事回復なされ、本当安心しました」
「心配かけたね」
口数が少なくなってしまうのは、彼の雰囲気がいつもと違うからだろうか。いつもなら真っ先に菓子を取り分けてこれが美味しいと勧めてくれたのだが、目の前にあるティーカップに手をつけることもない。ぎこちなく微笑んだその表情から、何が大切な話があるのではと勘ぐってしまう。
「……聞いて欲しいことがあるんだ」
ぐっと手を握り、表情を強張らせゆっくりと口を開いた。
「ミラ、婚約を解消して欲しい」
どきんと心臓が嫌な音を立てる。だが、ある程度予想していた言葉に、驚きはなかった。
「差し支えなければ、理由をお聞かせ願えますか?」
「ミラとは随分と長い付き合いになる。これまでずっと私を支えていてくれた事は感謝してもしきれない。政略的な婚約だった事とはいえ、幼い頃から共に過ごして来た日々の全てに君がいた。君とは良いパートナーになれると思っていたよ。けれど、それを覆す程の運命を感じてしまったんだ」
彼は芝居でも演じているかのように流暢に語り出した。こういう彼の言動は、大抵自分を正当化したい時によくある事。長い付き合いの中で、彼の癖すらも熟知してしまっていて、今回もそうなのだろうと、察する事ができた。
「こんな気持ちは、今までに感じた事が無いくらいで驚いた。自分の中にこんな感情が眠っていたなんて、思いもしなかった。彼女のことは、これからは俺が守ってあげなければならないと思ったんだ。こんな身勝手な事は許されないとは思うけれど、それでも謝らせて貰いたい。すまない」
「相手はどなたなのですか?」
「それは……ノーラだ」
「そう、ノーラを……」
その言葉を告げられた時、驚きや焦りなどはなく、その言葉が、ただただ胸にストンと落ちた。ここ数日、彼が思い詰めた顔をして何かを言おうとしていた事は幾度かあった。そんな様子がおかしいと思い、問いかけたとしても、彼は少し黙った後に何でもないと、最後は首を振るのだ。促したとしても話す事はなかったというのに、今日だけは違った。彼は結論を出したのだ。
私に対して感じた事のない胸の高鳴りというものは、きっと恋愛感情の事だろう。私達は良きパートナーであったが、お互いにそのような感情を抱く事はなかった。そんな雰囲気になった事はないし、きっとおそらく彼も同じ気持ちだっただろう。貴族として、たとえそのような感情がなくても、決められた人と結ばれることが当たり前だった。私たちはお互いに歩み寄り、それならりに良い関係を築けていたように思っていたのだけれど、やはりこうなってしまったのかと胸が痛む。
「ケイリー様は以前からノーラの事を可愛がっていましたからね。いつかそうなるのではないかと、薄々私も思っていました」
「なっ……そんな事は!」
たじろぐケイリー様を横目にふうとため息をついた。今から婚約破棄されるのだ、最後にこのくらいの嫌味を言ったとしても、ばちは当たるまい。
義妹の名前が出た事で、思っていた通りの展開に全く驚いていない自分がいた。私に会いに来るのを口実にして、二人が親密そうにしているのを目撃した事はあったからだ。
ノーラは少し我儘なところはあるが、私よりも人当たりも良く可愛らしい見た目をしている。お父様にそっくりの亜麻色の髪に、お母様そっくりの澄んだ空色の瞳で、見る者を魅了する。それに対して、私は銀色の髪に金色の瞳をしている。家族の誰とも似ていないのは、養子であるからしかたのないことだ。
かつて起きた事故によって私は家族を失い、この家に引き取られた。
そんな私を引き取ると真っ先に名乗りをあげたのが、レニエ侯爵家だったそうだ。私を引き取り王妃にした暁には、その見返りが十分期待できるからと。
けれど、屋敷での扱いは酷いものだった。顔を合わせれば嫌味ばかり。ノーラと比べて劣っていると貶される日々。家に私の居場所はなかったが、その期待に応えなくては、住む場所さえも失うだろうという恐怖から彼らの邪魔にならないように必要な時以外顔を合わせることを避け、一人部屋で過ごすようにしていた。無駄な軋轢を生みたくなかった。
王命で結ばれた婚約は大切なものである。そのために死にものぐるいで努力をしてきた。この国には魔法使いはほぼおらず、魔法使いの家系によって伝承していくものとされている。そのため師はおらず、誰からも魔法を教えてもらえなかったが、王家に保管されているという魔導書を借りて何もかも手探りの状態ではじまった。
それでも一向に魔法が使えるようにならないまま時は過ぎて行き、周りからは呆れられた視線を幾度となく向けられていた。
そんな育ての両親は私の顔を見て、人形の様に整った顔が気持ち悪いだとか、本当の親子ではないのだから、せめて育ててやった恩を返せと、何度言われた事か。どちらかといえばケイリー様とよく似た色合をしていた事で、「お揃いだね」と、彼が言ってくれた言葉がとても嬉しくて、心に残っていた。たとえ家に居場所がなかったとしても、彼の隣が私の居場所だったのだ。そんな居場所も今日で失われてしまうのだけれど。
「確かに君の妹だから、ノーラと顔を会わせる機会はそれなりにあったよ。けれど初めからそういうつもりだった訳ではないんだ。一月前、病に侵され生死を彷徨った時があっただろう?そこへ、レニエ公爵へ連れられて、彼女が見舞いに訪れたんだ」
どこか遠くを見つめながら、過去を回想する殿下にかける言葉はない。知っている。その場には私もいたのだが、殿下の記憶には残っていないのだろう。その話は王宮内でも屋敷のメイドたちも噂話しているのが何度も耳に入ってきていた。
魔法使いの一族の血を引いていると言われていた私はそんな時も非力で、婚約者だというのに何の役にも立てず、ただそれを見ているだけだった。必死に声をかけて看病をしても、日に日にやつれていく彼を見ていることしかできなかった。
「俺が苦しんでいたとき、ノーラが、涙を流しながら俺に対して祈ってくれたんだ。そうしたら光に包まれて傷は元通りになった。目を開けて彼女の姿が見えたあの時、彼女がまるで天使のように見えたんだ……」
それからだ。それまで以上に私の扱いがノーラより冷遇されるようになった。その瞬間を見た者達は口を揃えてノーラを讃え、担ぎ出し、まるで聖女のようだと謳った。
婚約者である私は、見舞いにも訪れない冷たい人で、彼を救う力もないのだと、そう囁かれていた。実際には毎日顔を出していたし、泊まり込みで彼の側にずっといて、声をかけていた。
あの時のことはよく覚えている。近くで私も見ていたのだ。殿下が、光に包まれ、その後鱗も綺麗さっぱり消え去っていたのだ。
どうして急に光に包まれたのかそれすらも謎だったが、近くにいたノーラが殿下の手を取っていたこと。すぐ意識を取り戻した殿下がノーラを見て、ノーラの祈りによって救われたのだと宣言したことにより、皆がそう信じた。二人の間に流れる空気はあの時に決定的なものになった。
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