1.プロローグ
「どうかケイリー殿下をお救いください」
病にうなされた婚約者の姿を、ただ見ていることしかできない。私は何度も彼が治るように祈ることしかできなかった。
◇
とある森の奥深くに、アクエルダという国がある。森に覆われて他国から孤立した土地は龍人から譲り受けたもので、その土地を開拓し治める様になったことがこの国の成り立ちである。龍人は人の様な見た目をしているが、ドラゴンにもなれる種族で、今では帝国を支配する王として君臨している。
当時は沢山の魔法使いがいて、国の開拓に尽力したというが、他国からの援助により魔法を使う機会が減り、魔法使いは姿を消した。今となってはこの国では魔法使いは貴重な存在で、魔法が使えない人間が大半を占めている。
この国はいま、苦境に立たされていた。
朝だというのに、空が暗く闇に覆われており、大雨が降り続いている。それはまさにこの国の国民たちの心を表しているかのようだった。
国内では、原因不明の病に倒れる人がいた。呪いと恐れられているその病は、ドラゴンの怒りに触れた者に発祥するといわれていた。肌がドラゴンの鱗のようなものに覆われていき、最後は鱗に覆われて息絶えるとされている。
治癒方法が確立されておらず、助かる見込みはない。病の進行は早く、発症した者は一週間程度で死に至る。市井や貴族の中でも発症する者がいると聞いたのは、数日前のこと。この国の王太子で、婚約者であるケイリー殿下もまたその病を発症させたのだ。
彼にもしものことがあれば、この国は混乱の渦に飲み込まれるだろう。王家には他に子供がいない。この原因不明の病によって公爵家は数年前に潰えたという。そうなったとき、果たして誰が国を治めることになるのか――。
今、それを口にすることは憚られるが、誰もが心のどこかで考えていることだった。まだ起きてもいない事態を想定して、悲観ばかりしてはいられない。
ケイリー殿下をなんとしてでも助けなくてはならないと、沢山の医師が王城に呼ばれたが、その結果は芳しくなかった。これまで誰も助かったことがないというのに、彼が突然医師の力で完治するということは、奇跡でも起きない限りありえないからだ。
そんな奇病に侵されているという内情を他国に知られでもすれば、弱みに付け込まれると国の重鎮たちは保守的だった。
仮に他国を頼ろうとしても、国同士やりとりが必要となる。要請をするために他国に出向き、その願いを聞き入れた後、この国を訪れるまでの期間で、病人は事切れるだろう。今からそれを行なったとしても、殿下を診てもらうことは叶わない。ままならないまま時は無情にも過ぎていく。
私は彼の眠る寝台の側で、つきっきりで毎日看病していた。婚約者の今の私にできることは、これぐらいしかなかった。助かりますようにと祈っても、病の進行を止めることはできない。己の無力さに打ちひしがれるだけだった。彼がこの病を発症してから五日目。寝る間もおしみそばを離れなかった。もう後がないことは重々理解していた。
「どうして殿下が、このような苦しみをおわなくてはならないのでしょうか」
変わってあげられたら、どれほど良かっただろうと思う。
私達の婚約は、生まれて間も無くの頃から、家同士で決められていたことだという。私の両親は、この国の有名な魔法使いの一族の一つであったそうだ。そのことが理由で、婚約が結ばれたのだと聞かされていた。人伝にしかその事を知ることができないのは、物心ついた時から養子としてレニエ侯爵家に住まわせて貰っているから。そこでの暮らしは窮屈で、肩身の狭い思いをしてきた。
それは、魔法使いの一族の末裔だからという理由で殿下の婚約者になったというのに、私は魔法が使えないままだからだ。落ちこぼれと蔑まれ、呆れられた目で見られることも多かった。役に立つと思って養子として迎えたのに、と言われたことも一度や二度ではない。
私が物心ついた時には、この国では実際に魔法を扱える人は誰もおらず、唯一私だけが魔法使いの血を引いていると聞かされた。そのため魔法を教えてくれる教師もいない。独学に近い状態で勉強をするしかなかった。
本当の両親がいたら何かが違ったのかもしれないと、偶に考えてしまうことがあった。魔法が使えないことが原因で、ずっと苦しんでいた。血の繋がらない義妹であるノーラは、彼らの愛を一身に受け、明るくて朗らかで優しい子に育った。私に冷たくあたる義両親とは違い、ノーラは普通に接してくれるが、それが私は辛くて仕方がなかった。
嫌なことを思い出したと頬を叩いて気分を入れ替える。それでも魔法が使えないことで、殿下を救えない無力さは消えないままだった。
魔法の中には、治癒魔法というものがあり、どんな病や呪いも癒すことができるという。もしも私に魔法の才能があれば、殿下はここまで苦しむことがなかったのだろうか。もしも私が魔法を扱えていたら、もっと義理の家族ともうまくやっていて、こんなことにはなっていなかったのかもしれないのにとありもしない願望が思い浮かんでは消えていく。必死になって王城に保管されていた魔導書の通りに治癒魔法の呪文を唱えても、結局は何も変わらなかった。
度々時間を見つけては陛下や王妃様がこの部屋に訪れたが、日に日に鱗に覆われていく彼を見舞う度、目から光が消えていくのを感じた。
「ミラグロスも、少しは休みなさい」
「王妃様……」
私を労ろうとする彼らに申し訳がたたなくて、なんて非力なのだろうと胸が痛んだ。私が糾弾されてもおかしくはないのに。何故魔法が使えないのかと、蔑まれてもしかたがないのに王妃様はそうしなかった。
そんな時、微かに殿下が動いた。慌てて近くに寄り声をかける。
「ケイリー殿下!」
「ミ、ラ……そんな顔、しないで。大丈夫だから……笑って」
そっと伸ばされた手を握ると、ケイリー殿下はふっと笑って眠ってしまった。
恨み言を言われても仕方ないと思っていた。こんな時にも、人の心配をしているなんて、お人好しにも程があるだろう。
「ケイリーもああ言っているのだから、今日は休みなさい。殆ど眠っていないのでしょう」
「ですが……」
「いいのよ、その気持ちだけで十分。ケイリーも分かっているわ。私も医師もおりますし、あなたの部屋で少し休みなさい」
「はい。それならば少しだけ……」
その言葉に甘え、湯浴みをして久しぶりにゆっくりできた。ほっとしたことでどっと疲労感が襲ってくる。
ベッドに寝てしまっては、いつ起きるかわからない。こんな時だからと近くのソファに腰掛けて仮眠をとることにした。眠りこけて、気がついた時にもしものことがあったらと思うと、私は後悔してもしきれないだろう。
ほんの少しだけ、そんな気持ちで目を閉じた。
眠りから覚めれば夜だった。思ったよりも眠ってしまったと、焦る気持ちで殿下の眠る部屋に向かう。
医師に囲まれた殿下と、涙する王妃様の姿に、もうあまり時間がないことを悟る。
「今夜が峠でしょう」
「そ、そんな。何か手段はないのですか?」
王妃様の言葉に、医師たちは首を横に振るだけ。
どうすれば彼が助かるのか。そんなこと聞いても無駄なことくらいわかっていた。呪いだから。私が魔法を使えないから。もう、諦めるしかないのかと涙が溢れそうになる。
「神様、どうか彼をお救いください」
徐々に明るくなる空を見ながら、懸命に祈る。魔法使いの血を引いているというのに魔法は使えず、ただ神に祈りを捧げるなんて、滑稽なことだろう。
これまで、来る日も来る日も魔法の練習に励んでいたけれど、思うような成果はなく、こうして大切な人を救うことすらもできない。それこそ、奇跡を望みたくなるほどに。
「ケイリー様!」
ノックもなしに、扉が開かれて、そこにはノーラの姿があった。その後ろには父であるレニエ侯爵の姿もある。
凍てつくような冷たい視線を向けられ、びくりと身体が縮こまる。
二人の急な訪れは礼節を欠いた行動ではあったが、居合わせた王妃様も憔悴しきっており、小言など言うような雰囲気ではなかった。
「こんな姿になってしまって……どうして、ケイリー様が……」
「ノーラが見舞っているのだ、そこを退きなさい」
「……はい」
さっと立ち上がって横にずれる。私の座っていた椅子にノーラが座りケイリー殿下に近づく。
「ケイリー様、ノーラです。声聞こえますか?」
ノーラが声をかける様子を見ながら、少し離れたところから殿下の顔色を伺う。
彼を救えなかったら、あの笑顔はもう二度と見られなくなってしまうのだと思った。彼の隣は家にいる時とは違って心地の良いものだった。それをこのまま、失ってしまったら。私はこれから先絶対後悔するだろう。
胸から熱いものが込み上げ、思わず視界が滲む。
――彼の病が治りますように。
「ケイリー様、お願い、目を開けて」
潤んだ瞳でノーラがケイリー殿下の手に触れようとしたその時、彼が真っ白の光に包まれた。
その日、王城の一角から光の柱が上がったという。その光が収まった時、殿下の身体から鱗は消え穏やかな表情をしていた。瞼がふと持ち上がり、その瞳に映ったものは――。
そして、新しい魔法使いの誕生に王国の人々は歓喜した。